サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

焼亡する「美」のイデア 三島由紀夫とプラトニズム 1

 私は一昨年の秋から今年の早春まで、ずっと三島由紀夫の小説ばかりを読む生活を送ってきました。それは結果的にそうなったということではなく、最初から意識的に樹立した計画に基づいていました。私は彼の小説の中では「金閣寺」に最も強く惹かれているのですが、幾度挑戦してみても、すっきりと理解出来た気になれないのが悩みの種でした。そこで「金閣寺」単体を繰り返し読むことで作品の本質や構造を究明しようと試みるのではなく、彼の遺した作品の系譜の中に「金閣寺」を位置付けることで、いわば「文脈」という流れの力を借りることで、理解の質を高めようと思い立ったのです。成る可く作品の公表された順序に従い、作者自身の成長の過程と足並みを揃えながら、一作ずつ丹念に読んで感想文を纏める作業を一年余り、私は己に課してきました。そして、当初の目論見は一定の収穫を確保したように思えます。けれども「金閣寺」という作品に関して言えば、私の読解の精度が大幅に向上したかどうかに就いては、今でも大いに疑問が残っています。

 そもそも、彼の遺した厖大な作品の群れと日々向き合いながら、私は常に自分の教養や知識の乏しさ、視野の狭さを感じ続けていました。個々の作品の解釈に就いて、彼是と尤もらしい理窟を拵えてみても、表層的な理解の貧しい手触りを完全に糊塗することは、無謀な試みに過ぎません。自分よりも遥かに優れた人間の書いた文章を深く理解するには、私自身の側の成長が欠かせません。三島の主要な作品を悉く踏破するという個人的な企画も、己の成長に資する営為であると看做すことは可能ですが、それだけでは不充分であることを私は漠然と悟りました。そこで、小説という虚構を経由せず、もっと直接的な仕方で、この世界の現実に就いて多くの勉強を積み重ねようと考え、古代ギリシアやローマの哲学者たちの著作に手を出すようになった訳です。

 所謂「思想」という曖昧な概念に就いて、作家の坂口安吾は、次のように書いています。

 人間通の文学というものがある。人間通と虚無とを主体に、エスプリによって構成された文学だ。日本では、伊勢物語芥川龍之介太宰治などがそうで、この型の作者は概して短篇作家である。
 虚無というものは思想ではない。人間性に直属するもの、いわば精神的人間性というような原本的なものだろうと私は思う。
 思想というものは別物で、これは原本的なものではない。よりよく人生を構成発案して行こうとするもので、やってみたって、タカが知れている、そう言ってしまえば、まことに、その通り、タカが知れてはいる。無限の人間の時間にくらべれば、五十年の人生は、いつもタカが知れているのである。
 原本的な人間性にあきたりず、ともかくも工夫をもとめるところから思想が始まるのであるが、しかし不変の人間性というものから見れば、五十年の人生の工夫や細工は、むしろ幼稚で、笑止千万なものでもある。然し、そう悟りすまして冷然人生を白眼視しても、ちっとも救われもせず偉くもならぬ。
 つまり五十年生きるだけのナマ身の人間というものと、人間一般というものは違う。この違いによって、バカの悪アガキ、思想という幼稚な活躍に、意味やイノチが宿ることゝもなるのである。
 思想の文学は、人生を発明工夫して行く、いわば行動の文学でもある。この型の文学は個人だけではあり得ない。時代がある。社会がある。それらとのツナガリを離れては成りたゝぬ。(坂口安吾「思想と文学」 註・青空文庫より転載)

 思想は、この世界に暮らす個々の人間が、自らの生涯において彼是と悩み抜いたことの結晶のようなものです。そして優れた思想は、その内容の如何に拘らず、或る考想や信条を徹底的に突き詰めて考察することで、或る思考の形態の極北に達しています。一つの体系の極北に至るほどに果てしなく積み上げられた思索の努力が、巨大な射程を持ち、並外れた包容力を備えるようになるのは当然の帰結です。そうした徹底的な努力は、個人における思想の偏向を些細な問題に変えてしまうほどに偉大な労役であると言えます。何事に関しても、中途半端に考えて表面的な答えで満足してしまうのが最も退嬰的な振舞いであると私は思います。

 例えば私は最近、専らプラトンの著作を読み漁る日々を過ごしています。目下「パイドン」という対話篇を繙読している最中なのですが、この作品は、初期のソクラテス的対話篇の特徴を離れて、プラトン自身の抱懐する思想が鮮明に表現されるようになった、重要な分水嶺としての性質を帯びています。そこで語られている学説は、ソクラテス的な意味での「哲学」の成果とは異質であり、殆ど「神学」と看做して差し支えない内容を豊饒に含んでいます。私は「パイドン」におけるソクラテスの学説、プラトンに憑依されたソクラテスの開示する思想の内容に自然な同意を持つことが出来ないのですが、如何に荒唐無稽の暴論に聞こえたとしても、プラトンが自らの思想に対して、生半可ではない考究の努力を捧げたことは明瞭な事実であると感じます。如何に偏向した学説であっても、その学説に個人が自らの実存の総てを捧げるならば、我々はその健気な労役に対して最低限の敬意と礼儀を示すべきでしょう。

 所謂「プラトニズム」(Platonism)は、感性的な現実に対する強固な不信を、その根幹に据えています。「パイドン」を通じて提示されたプラトニズムの鮮明な表現を、胡桃を齧るように少しずつ繙きながら、私は三島由紀夫の「金閣寺」を連想しました。「金閣寺」において、三島が告白体の文章を通じて語った特異な思想的格闘の痕跡は、明らかにプラトニズム的な価値観の反映に浴しています。換言すれば、私はプラトンの著作に記された思索の成果を媒として、三島の「金閣寺」に関する理解の水準を高めることが出来るのではないかという着想に魅惑されたのです。

 無論「金閣寺」をプラトニズムと関連させて論じるという発想は、全く私の創見ではありません。ネットで少し検索してみただけでも、例えば社会学者の大澤真幸氏が、そのような発想を著作の裡に書き記しているらしいことが確認出来ました(大澤真幸三島由紀夫 ふたつの謎』集英社新書)。尤も、私はこの書籍を読んだ経験がないので、詳細な内容に就いては無知そのものであり、大澤氏が三島の文業とプラトンの「神学」との間に如何なる関係を見出しているのかは分かりません。ですから、私は私なりの拙劣な方法と貧困な発想に基づいて、プラトニズムと「金閣寺」との類縁性を探究する地道な旅路に踏み出してみたいと思います。この旅路は、聊かも成功を確約されていない不透明な青写真の下に辿られることになるでしょう。私の儚い野心は、プラトニズムという思想及び実存の形態を援用することで、三島の「金閣寺」に関する理解を少しでも立体的に深めることが出来たならば、恐らく充分に満足するでしょう。焦らず断続的に、自分の歩調に従って徐々に進めていきたいと考えています。何卒宜しく御願い申し上げます。

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

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金閣寺 (新潮文庫)

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