サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

焼亡する「美」のイデア 三島由紀夫とプラトニズム 2

 三島由紀夫の「金閣寺」は、昭和二十五年に発生した、若い寺僧による金閣寺放火事件に題材を求めて執筆された作品です。三島の遺した数多の作品の中でも特に著名で、国際的な評価も高い傑作であると看做されています。実際、その作品を実地に繙いてみれば分かりますが、洗練された文章は研ぎ澄まされて堂々たる貫録を備え、構成と主題との関係も鮮明且つ緊密で、その出来栄えは三島の生涯を通じて絶巓の領域に達していると私も思います。

 尤も、実際の事件に想を得ていると言っても、三島が事件の詳細な模写に関心を懐いていたと看做すのは適切な解釈ではありません。彼は寺僧による金閣寺への放火という前代未聞の事件そのものに関心を唆られたのではなく、それが彼の抱え込んでいる実存的な課題の象徴として非常に相応しく思われた点に惹かれたのであろうと考えられます。事件に関する詳細な事実関係への取材も、現実の端的な構造を明快に見極める為の作業ではなく、飽く迄も彼自身の個人的で実存的な「思想」を美しい芸術的構図の裡に昇華する為の手段に他ならないのです。三島にとって眼前の現実は、芸術にまで高められた思想的表現を構築する為の原料に過ぎません。彼は在るがままの現実の忠実な模写に歓びを見出すような種類の作家ではありませんでした。私小説の書き手たちのように、現実の露悪的な解剖や、慎ましい日常の生活の丹念な復刻などに、芸術家としての欲望の充足を覚える人物ではないのです。彼にとっては、現実を超越する至高の価値の方が大切であり、日常的な現実の随処に鏤められた真実の断片など、倦怠の源泉でしかなかっただろうと推察されます。

 感覚的な現実、つまり肉体の機能を通じて得られる諸々の認識に対する「軽蔑」、これは明らかにプラトニズムの基礎的な規範に整合しています。プラトンは「霊魂」と「肉体」とを峻別する二元論的な思想を発展させました。そして人間が普遍的な真理の認識に到達する為には、肉体という「穢れ」は障碍の原因にしかならず、感覚を通じて得られる認識は常に真理の不完全な模写に過ぎないと論じました。こうした発想が、少なくとも「金閣寺」における観念的な格闘の構造において、重要な役割を担っていることは明瞭な事実です。

 余り結論を急がず、順番に物語の展開を辿っていきたいと思います。こういう事柄は、急いで答えを出す必要のあるような、喫緊の社会的問題ではないので、焦躁に駆られる理由は一つも存在しないのですから。

 写真や教科書で、現実の金閣をたびたび見ながら、私の心の中では、父の語った金閣の幻のほうが勝を制した。父は決して現実の金閣が、金色にかがやいているなどと語らなかった筈だが、父によれば、金閣ほど美しいものは地上になく、又金閣というその字面、その音韻から、私の心が描きだした金閣は、途方もないものであった。(『金閣寺新潮文庫 p.6)

 「金閣の幻」の方が「現実の金閣」に対して優越的であるという認識の形態は、「私」の内面におけるプラトニズム的な思考の胚胎を示唆しています。それは単に幻想の中の金閣と現実の金閣との相対的な優劣の問題に留まるものではなく、もっと言えば金閣寺そのものとは無関係な問題であるとさえ言えます。「私」にとって金閣は「美」という概念の象徴であり、或いは「美」そのものと同義語であると看做しても差し支えないほどの特権的な定位を与えられているのです。

 こういう風に、金閣はいたるところに現われ、しかもそれが現実に見えない点では、この土地における海とよく似ていた。舞鶴湾は志楽村の西方一里半に位置していたが、海は山に遮ぎられて見えなかった。しかしこの土地には、いつも海の予感のようなものが漂っていた。風にも時折海の匂いが嗅がれ、海が時化ると、沢山の鷗がのがれてきて、そこらの田に下りた。(『金閣寺新潮文庫 p.6)

 普遍的な仕方で存在しながら、決して人間の感覚の裡に現前することのない「実在」のことを、プラトンは「イデア」(idea)と呼びました。絶えずその存在の気配を窺わせながら、決して感覚的な認識の裡に顕れない「金閣」と「海」は、その関係性の構造において、明白にイデア的な特質を示しています。少なくとも「私」にとって「金閣」及び「海」は、感覚的な現実に対してイデアが有している関係の相似した形態を意味しているのです。

 ここで生じる素朴な疑問は、彼が何故こんなにも自然にイデア的な対象への関心を保持しているのか、そうしたプラトニックな思考の形態は如何なる過程を踏まえて形成されたのか、というものです。それに関して三島は「吃音」という身体的特徴を、感性的外界に対する一つの「蹉跌」として作中に配置しています。

 吃りは、いうまでもなく、私と外界とのあいだに一つの障碍を置いた。最初の音がうまく出ない。その最初の音が、私の内界と外界との間の扉の鍵のようなものであるのに、鍵がうまくあいたためしがない。一般の人は、自由に言葉をあやつることによって、内界と外界との間の戸をあけっぱなしにして、風とおしをよくしておくことができるのに、私にはそれがどうしてもできない。鍵が錆びついてしまっているのである。(『金閣寺新潮文庫 p.7)

 この不幸な断絶、内界と外界との自由な往来の阻害は、自ずと両者の閉鎖的な分断を齎してしまうことでしょう。この二元論的な分断は、プラトンにおける「霊魂」と「肉体」との厳格な弁別に対して類比的です。精神と肉体、超越と現前、自己と他者、こうした二元論的な区分と対立は、それぞれの項目の裡に、それぞれの概念を逼塞させる効果を宿しています。両者が分断され、相互に対立的であると看做されるとき、我々は何れか一方の極に偏することで、自己の方針と立場を明確化しようと企てるようになります。その意味で、吃音によって外界との有機的な交流を阻害されていると感じる「私」が、内界と霊魂の極へ軸足を据える傾向を持つのは、自然な成行であると言えます。

 吃りが、最初の音を発するために焦りにあせっているあいだ、彼は内界の濃密な黐から身を引き離そうとじたばたしている小鳥にも似ている。やっと身を引き離したときには、もう遅い。なるほど外界の現実は、私がじたばたしているあいだ、手を休めて待っていてくれるように思われる場合もある。しかし待っていてくれる現実はもう新鮮な現実ではない。私が手間をかけてやっと外界に達してみても、いつもそこには、瞬間に変色し、ずれてしまった、……そうしてそれだけが私にふさわしく思われる、鮮度の落ちた現実、半ば腐臭を放つ現実が、横たわっているばかりであった。(『金閣寺新潮文庫 pp.7-8)

 彼にとって感覚的な現実は、吃音の為に絶えず現前の遅延を伴っており、彼が到達する外界の現実は、不可避的に「鮮度の落ちた現実」として構成されるという認識は、感性的な認識を本来のイデア的認識の劣化した形態と看做すプラトニズムの原理に酷似しています。少なくとも「私」自身の眼に映る感覚的現実は、本来の感覚的現実の劣化した認識として把握されています。彼が本来的な外界の現実に到達する為には、感覚という肉体的手段を経由することは原理的に不可能なのです。こうした精神にとって、プラトニズムの論理が非常に親密な性質を帯びて迫り易いものであろうことは明らかです。何故ならプラトニズムの論理は当初から、感性的な認識自体が不完全であり、真正な認識へ到達する為には、肉体的な感覚は寧ろ積極的に排除されねばならないと教えているからです。

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

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金閣寺 (新潮文庫)

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