サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

焼亡する「美」のイデア 三島由紀夫とプラトニズム 3

 引き続き、三島由紀夫の『金閣寺』(新潮文庫)に就いて書きます。

 こういう少年は、たやすく想像されるように、二種類の相反した権力意志を抱くようになる。私は歴史における暴君の記述が好きであった。吃りで、無口な暴君で私があれば、家来どもは私の顔色をうかがって、ひねもすおびえて暮らすことになるであろう。私は明確な、辷りのよい言葉で、私の残虐を正当化する必要なんかないのだ。私の無言だけが、あらゆる残虐を正当化するのだ。こうして日頃私をさげすむ教師や学友を、片っぱしから処刑する空想をたのしむ一方、私はまた内面世界の王者、静かな諦観にみちた大芸術家になる空想をもたのしんだ。外見こそ貧しかったが、私の内界は誰よりも、こうして富んだ。何か拭いがたい負け目を持った少年が、自分はひそかに選ばれた者だ、と考えるのは、当然ではあるまいか。この世のどこかに、まだ私自身の知らない使命が私を待っているような気がしていた。(『金閣寺新潮文庫 p.8)

 市井の人々の対話、つまり哲学に関する専門的な知識を持たず、訓練を受けたこともない、様々な立場の人々との対話を通じて、自明の信憑を揺さ振ることを「愛智」と看做したソクラテスの方法は、共同体による断罪によって蹂躙され、破壊されました。こうした事実が、無理解な民衆に対する憎悪を育む培地の役目を担ったとしても何ら不思議ではありません。プラトニズムの特徴は、感覚的な現象界の論理に制約されることなく、真理は超越的な仕方で不壊の形態を保っていると看做す点に存します。従って、プラトニズムの論理を正しいと認める限り、ソクラテスのように無智な民衆との対話を通じて真理に至ろうとする方法は、無意味な迂回を選んでいるに過ぎないということになります。幾ら対話を重ねたとしても、それが直接的に真理の臨在を喚起する見込みは成り立たないのです。「無言の暴君」という表象は、社会的な合意を超越して普遍的に存在する「真理」の比喩であると言えます。

 このような「真理」の定義が、現実の社会に対する「負け目」に基づいていることは明白です。外界における挫折が、内界における豊饒を涵養するというのは、少しも珍奇な展開ではありません。眼前の現実を信用せず、背後に隠された不可知の領域に希望を見出すような精神的姿勢、これがプラトニズムという思考の形式の基礎的な本質なのです。

 ……このとき私に、たしかに一つの自覚が生じたのである。暗い世界に大手をひろげて待っていること。やがては、五月の花も、制服も、意地悪な級友たちも、私のひろげている手の中へ入ってくること。自分が世界を、底辺で引きしぼって、つかまえているという自覚を持つこと。……しかしこういう自覚は、少年の誇りとなるには重すぎた。

 誇りはもっと軽く、明るく、よく目に見え、燦然としていなければならなかった。目に見えるものがほしい。誰の目にも見えて、それが私の誇りとなるようなものがほしい。例えば、彼の腰に吊っている短剣は正にそういうものだ。(『金閣寺新潮文庫 p.11)

 こうした述懐は「私」の内面におけるプラトニズム的性向と、それと相反する通俗的で感性的な、つまり社会的な性向との複雑な共存を示しています。「私」の「自覚」は明らかに、自分自身の存在を超越的な真理の領域に定位し、忌まわしい可知的な現象界に存在する人々への絶対的で陰惨な優越を確保しようとする一つの「権力意志」の萌芽を意味しています。他方、彼にとってそれは過重な負担でもあり、余りに陰惨な自覚でもあるのです。プラトニックな真理の自覚に依拠することで現象界を超越しようと試みる「権力意志」と並行して、同時に彼の内面には「目に見えるものがほしい」という世俗的な価値や栄光への憧憬も宿っているのです。「金閣寺」という作品の全篇に亘って、こうした二つの相反する性向は絶えざる鬩ぎ合いを演じ続けます。

 脱ぎすてられたそれらのものは、誉れの墓地のような印象を与えた。五月のおびただしい花々が、この感じを強めた。わけても、庇を漆黒に反射させている制帽や、そのかたわらに掛けられた革帯と短剣は、彼の肉体から切り離されて、却って抒情的な美しさを放ち、それ自体が思い出と同じほど完全で……、つまり若い英雄の遺品という風に見えたのである。

 私はあたりに人気のないのをたしかめた。角力場のほうで喚声が起った。私はポケットから、錆びついた鉛筆削りのナイフをとり出し、忍び寄って、その美しい短剣の黒い鞘の裏側に、二三条のみにくい切り傷を彫り込んだ。……(『金閣寺新潮文庫 p.12)

 この陰湿な悪意、感性的な現象界における栄光への嫉妬に塗れた敵意は、プラトニズムという壮麗な価値の体系が潜在的に抱え込んでいる宿痾のようなものです。また「私」が「若い英雄の遺品」から受け取る「抒情的な美しさ」は、「私」の内面に巣食うプラトニックな価値観の明晰な反映を意味しています。「肉体から切り離されて」存在するがゆえに一層美しく見える、という述懐、或いは「思い出と同じほど完全」という述懐は、眼前の現象を超越する精神的性向の所産であると言えます。プラトンにとって「肉体」は唾棄すべき現象界の象徴であり、超越的真理への到達を阻害する邪悪な要素と同義語です。また「真理」とは想起されるべき対象であり、それは諸々の感覚的認識を超えて、精神の深層に「思い出」として蓄積されているという考え方も、プラトンにとっては重要な基礎的認識でした。これらの学説に符合するような仕方で、単なる物体を「若い英雄の遺品」と表現する「私」の認識の形態は、露骨なまでにプラトニックな性質を含んでいると言えるのです。

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

 
金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)