サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「国家」に関する覚書 1

 ゴールデンウィークの繁忙期に追われ、その進捗は遅々としていますが、目下、プラトンの最高傑作の一つと謳われる『国家』(岩波文庫)を繙読しています。例によって、感想の断片を記しておきたいと思います。

 未だ全体の半分も読み終えていない段階で、総括紛いの言葉を列ねるのは無益な振舞いであると思いますが、現時点で感じるのは、この長大な対話篇が、従来のプラトンの思想の集大成であり、多様な思考の混在する作品であるということです。「国家」の最も重要な主題が「正義」であることは確かな事実であると思いますが、この主題を論じるに当たって持ち出される議論の豊饒な多様性は非常に刺激的なものです。恐らく意図的に内容を凝縮すれば、もっと簡潔に整理した形で叙述することは可能なのでしょうが、対話篇という形式の特性にも強いられて、プラトンの議論は実に流動的な蛇行を示します。それはプラトンの議論が熟成されていないことを傍証する現象ではなく、そもそも「哲学」という思想的営為の本質的な特性を露わに示すものです。哲学的探究の本領は、明確で簡潔な正解に向かって最短の経路で到達することではありません。厳密に言えば、プラトンの提示する論証が正しいかどうかという点も、本質的な論点ではないのです。重要なのは、思索が継続されることであり、何らかの解答に滞留して探究を停止するような態度への拒絶を保つことなのです。

 答えを拒絶すること、如何なる正解も存在しないと信じること、この根源的な懐疑の精神が、哲学的な探究の中枢を形作る要素であると言えます。「国家」の厖大な分量は、そのような懐疑の驚嘆すべき執拗な持続の物理的証明であると看做すことも可能なのではないでしょうか。若しも正解に辿り着くことが総てならば、何処かの時点で思索を停滞させ、或る体系や秩序への盲目的な信憑を選択すべきであろうと私は思います。答えを出すという決断は常に、何らかの理念や価値への信仰を確定させるという過程を含みます。思考の中断以外に、答えを確定させる手段は存在しません。そうであるならば、哲学とは一切の確信に対する峻拒として機能すべき営為であるということになります。霊魂の不滅が証明されるかどうかは、哲学的な観点から眺めるならば、些末な問題に過ぎません。確実な答えを手に入れたと信じたとき、人間の思考は頽廃への着実な傾斜に向かって進み始めるのです。

 答えを出さないこと、特定の答えに安住しないこと、それが必ずしも幸福な境涯であるとは言えません。人生において、何も疑わずに過ごせるのならば、つまり与えられた現実の環境に盲従して、その枠組みの中で死ねるのならば、それは相対的には幸福な境涯であると言えるのかも知れません。奴隷にも、奴隷の幸福というものが有り得ます。幸福の定義を、現実以外を求めないという実存的形式の裡に認めるのならば、答えを出さないことは、自ら殊更に不安を掻き立てるばかりの否定的な材料に過ぎないということになります。例えばストア学派エピクロス学派の議論は、そのような幸福を肯定しているようにも見えます。欲望を節制し、眼前の現実によって満たされることが、幸福へ至る為の要諦であるという理路は、正に一つの確固たる「解答」の齎す果実です。明瞭な答えによって庇護されること、こうした実存的状態における安息の価値を、私も否定する積りはありません。しかし、それは本当に人間の理想的な姿なのか、疑問が残ります。明確な答えを持ち、その内部に安住して救済を得ること、それ自体は確かに称讃されるべき努力の成果ですが、そこには「智慧」はあっても「慈悲」がないように思われるのです。換言すれば、人間は優れた「智慧」に到達するだけでは、利己的な閉域を脱却することが出来ないように見えます。何故なら、優れた叡智は必ずしも他者との社会的関係を必要としないからです。

 哲学的探究が純然たる「正解」への欲望に限られるのならば、それは如何に精緻な省察の上に成り立っていても、利己的な閉域を超克することが出来ません。あらゆる「正解」を拒絶することは、結果として、他者との連帯の可能性を開拓することに通じます。「真理」への到達が至高の価値であるならば、その「真理」に関心を示さない人間は堕落した存在として排撃されざるを得ません。「正義」への固執が頻繁に他者への暴力的抑圧に転化するのは、それが「真理」による支配を望んでいるからです。「私は真理を把握している」という自己定義は、あらゆる野蛮で冷酷な暴力の源泉です。

 「私は真理を把握していない」という自己定義に依拠するソクラテス的な探究と比較すれば、プラトンの思想は明らかに、師父とは異質な「真理」への露骨な欲望を抱懐しています。尤も、それはプラトンが安易に「真理」を振り翳すような人間であることを意味しません。そのような断定は既に、一切の「正解」を拒絶する開放的知性の規範に背馳しています。重要なのは、不可解な世界への内属を受け容れることです。それは現実への素朴な盲従とは異質な意味で、この世界の現実を承認しようと試みる態度であると言えます。「真理の不在」を信じること、にも拘らず「真理」への接近を試みること、この二つの営為は相互に矛盾しているように見えますが、哲学的探究の本懐は、こうした両義性に軸足を置くことに存しています。「真理の不在」を信じることは「真理の実在」を信じることと等価です。重要なのは「真理の不可知性」を理解することです。それは決して明快な正解によって充実させられることのない、或る奇態な、原理的な「空虚」です。その意味では「真理」に超越的性格を賦与したプラトンの判断は、適切なものであったと言えるでしょう。我々の知覚する現実は「真理」に反するものであるという推論自体は、確かに正当な訴えであると思います。「真理」は常に感覚的な認識の彼岸に存在します。しかし、それは理性によって確実に把握し得るものであるとも言えないのです。仏教的な表現を借りるならば、要するに「真理」とは「無記」です。確定的な判断を下し得ないということが「真理」の本質的な要件なのです。従って「真理」を把握しようと試みる総ての探究は無窮となります。仮に探究が窮まるとすれば、それは「真理」への到達ではなく、何らかの盲信への依存を意味しているのです。

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)