サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「挑戦」に就いて

 最近、仕事や私生活を通じて重要な主題として考えているのは「挑戦」という概念です。

 「挑戦」という言葉は文字通り「戦いを挑む」という意味を含んでおり、その内部には、眼前の現実に甘んじて充足したり適応したりすることへの「抵抗」という語義が潜在しています。

 現代の社会に生きる人々は誰でも「挑戦」することの大事さを訴える言説を、飽きるくらい耳の孔に流し込まれて辟易しているのではないかと思います。特に「幸福」への切迫した欲望に囚われている人にとって、この「挑戦」という概念の備えている粗暴な響きは鬱陶しく、堪え難いもののように感じられるかも知れません。勇ましい精神論の掛け声に向かって、皮肉な唾を吐き掛けてやりたいと思うこともあるかも知れません。そういう気持ちは、私にもよく分かります。

 「幸福」とは何か、という議論に就いては古来、数多の賢人が夥しい意見を書き遺してきました。にも拘らず、それらの磨き抜かれた教説を、粉薬のように服用すれば直ちに個人の不幸が快癒へ向かう、という現象を日常的に見聞する機会は滅多にありません。それは何故なのでしょうか。

 理窟を解するということと、それを自らの実践において体現するということとの間に、巨大な深淵或いは宏遠な径庭が横たわっていることは、誰でも日常的に感受する現実ではないかと思います。頭で習い覚えた理窟や知識が、自動的に体現し得る状態に移行すると考えるのは楽観的な態度です。言い換えれば、理性的な知識と、それを実際に運用する為の実践的な知識との間には、或る構造的な分断が存在しているのです。実践或いは行動における「知性」の働きは、現実に対する理性的な観想の働きとは異質な要素を豊富に含んでいます。

 理性的な観想の働きを以て、知性の本質と看做す狭隘な議論に、私は同意したくありません。最も抽象的な思索の精髄であるかのように看做されている「哲学」の分野も、本来は銘々の具体的な生活と緊密に結び付いた実践的な方法論の支配する世界である筈です。深く精密に思考することは、大脳によって独占的に支配されるべき営為ではないのです。考えることは、行動そのものです。もっと言えば、考えることと行動することとは本来、相互に切り離し得ないものなのです。

 しかしながら、人間は恐懼や怠慢や無気力ゆえに、具体的な行動や実践を延期したり回避したりしようと試みる度し難い性向を有しています。義務を怠り、創意工夫を嫌がり、決まり切った手順に従うだけで仕事も生活も済ませてしまう堕落した実存、そうしたものは我々の社会に夥しく氾濫しています。そういう人間に若しも一定の小賢しい知性が備わっていれば、彼らは口を揃えて自己の怠慢を正当な真理に基づく態度であるかのように弁明するでしょう。「どうせやっても無駄だから、やらない」「やる意味が分からないから、やらない」「疲れるから、やりたくない」など、兎に角「実践」を怠る為に持ち出される理窟の数々は、それが如何に精緻な論証の手順によって裏打ちされていたとしても、要するに退嬰的な弁明以外の何物でもないのです。

 「実践」或いは「行動」は、単なる肉体的な行為を指すものではありません。重要なのは、それらの行為が何らかの変革を齎す可能性を秘めているという点です。世界を変革すること、それは確かに精密な理性的探究を要求します。けれども、理性的探究が具体的な実践に接続しないのならば、それは単なる死蔵された知識に過ぎません。知識そのものは、如何なる価値とも無縁であり、善悪を超越したものです。知識は実践と結合することで初めて自らの価値を確保します。知識と実践とを繋ぐことが本来の「知性」の役目であり、知識と実践とを組み合わせて世界の変革に寄与することが「知性」のアレテーなのです。厖大な知識を持ちながら、それを如何なる実践にも接続しない博識な人物は、優秀な人間ではなく、単に黴の生えた書庫に過ぎません。

 実践は、常に不可視の領域を含んでいます。誰も未来のことを完璧に予言する能力など持ち合わせていません。現実の世界には絶えずエピクロスの論じる「クリナメン」(clinamen)の介入が発生しているのです。従って世界の総てを理性的な必然性の規矩のみに基づいて管制することなど出来ないのです。既に獲得された知識は、その本性において、必ず「過去」の範疇に所属します。けれども実践は、絶えず「未来」の範疇に所属しており、既成の知識によっては包括し得ない「逸脱」の部分を備えているのです。この「逸脱」に向かって跳躍することが「挑戦」という概念の本義です。既成の知識を脱却して、新たな知識を創造することが「実践」の主要な意義です。既に確立された「真理」への到達を図ることが哲学的探究の意図ではなく、新たな「真理」を創造しようと試みることが本来の目的なのです。

 我々は何が真理であるのかを把握することが出来ません。完成された普遍的な真理が仮に存在するとしても、それが永久に改訂されないという保証は存在しないのです。真理は不可知であり、しかも絶えず流動します。知識を殖やそうと試みることは、普遍的な真理へ到達する為ではなく、探究の終焉を目指す為でもありません。「愛智」の精神は、新たな知識を求めるという欲望自体の裡に存在しているのであり、既存の知識に安住して新たな探究を取り止める退嬰的な態度は厳に批判されるべきです。知らないことを知ろうとする衝動の裡に、つまり「挑戦」と「変革」への衝動の裡に、人間的な知性の最も輝かしい側面は存在します。揺るぎない真理など、人間には不要です。ソクラテスが求めたのは未来永劫に亘って書き換えられることのない不変の真理ではなく、知らないことを知ろうとする探究そのものの無際限な持続であったのだと、私は思います。