サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

対話篇「知識と実践」

甲:君は先日、私が書いた文章に就いて何か反論があるらしいね。私はその文章の中で、知性の役割を「知識」と「実践」とを結び付けるものだと説いた。そして「実践」が如何に重要であるかということを強調しようと努めた。それが君の癇に障ったのかね?

乙:まあ、そういうところだね。「実践」を強調するのは大いに結構だ。実際、四の五の理窟を並べ立てるより、何でも行動に移してみた方が、話が早いに決まっている。その点に就いては、君に同意しよう。けれども、そういう考え方は、所謂「実学志向」に関する凡庸な議論の焼き直しに過ぎないんじゃないか? 君がそれを明白に意図していたかどうかは兎も角、学術的な研究を実社会の役に立つか立たないかの一点だけで判断する性急な傾向というものは、現代社会の宿痾だろう。それに便乗するだけの議論ならば、浅薄だし退屈だと僕は思ったのさ。

甲:なるほどね。だが、死蔵された知識の価値を議論しても虚しいということに就いては、君は同意しないのかい? 私としても別に、所謂「基礎研究」というものの価値を殊更に貶めようとは思っていない。私が言いたいのは、知識と実践との分断が齎す弊害に関する話だ。知識が、実践を延期する為の弁明として用いられるような風潮に、異議を唱えたいと思ったんだよ。

乙:知識が実践を延期する為の弁明として用いられるというのは、どういう意味だね? 知識を殖やすことは、行動の効果を高めることに繋がるだろう。それは決して行動を阻害するものではない筈だ。

甲:知識が正しく用いられるのならば、確かに君の言う通りだ。問題は、単に知識を殖やすこと自体が目的化しているような場合だ。行動してみれば直ぐに分かるようなことを、行動を経由せずに彼是と議論するような人間は少なくない。既存の知識を組み立てて、予言者のように振舞って、行動の無益を諄々と説くような連中だ。彼らにとって、行動は無意味な蛇足のようなもので、行動の齎す現実的な利益は、軽蔑に値すると考えているのだ。

乙:それは大袈裟な批判ではないかね? そういう連中にしても、別に軽蔑とまでは言わないだろう。そもそも、知識と行動との分断を殊更に言い立てるのは、君の戦略的な曲解に過ぎないんじゃないのかね?

甲:とんでもないことだ。私は知識と行動との分断を解決すべき問題として積極的に捉えているんだ。両者の分断を固定化した上で、その優劣を論じようとは考えていないよ。そもそも行動は、それ自体が新しい知識の獲得であり発見だ。行動と知識は常に相互に緊密な関係を持っている。両者を切り離すことは、本当は不可能な話だ。それを切り離し得るような誤解が、世の中に蔓延していることを問題視しているのさ。

乙:それは例えば、創作家と評論家との分断のような事柄を言っているのかね? 自らは実践せず、具体的な行動に移さず、賢しらに理窟ばかりを振り翳すような人間への嫌悪を語っているのかい?

甲:別に評論家を槍玉に挙げたい訳じゃない。そもそも、そういう対立というものは、相補的な関係に置かれているとは思わないか? 少なくとも理念としての「創作家」は実践の塊で、同様に「評論家」は理窟の塊だと。両者は互いに自分に欠けているものを相手の裡に見出している。この対立は、不自然な図式化の産物に過ぎないだろう。何故なら、世の中には純然たる「創作家」も「評論家」も存在しないのだから。

乙:そういう理念化の作業を批判するのは結構だ。だが、何れにせよ、混淆の度合に個体差が存在することは明確な事実ではないかね? 創作家としての要素が強い人間もいれば、評論家の要素が強い人間もいる。その差は確かに相対的なものだが、理念的に強調されずとも、両者の差異に重要な意味を見出すのは正当な判断じゃないか?

甲:それならば、このように考えてみたらどうだろう? 「悪しき評論家」の特徴は、何だと思う? 理想ばかり並べ立てるが、それを実践する能力を持たず、しかも自己の無力を何とも思わずにいるような厚顔な人間を、君は「悪しき評論家」だと看做さないかね?

乙:まあ、それに就いては同意しよう。理窟を述べるばかりで、その理窟を実践に活かすことが出来ないのならば、その人間は確かに無力だ。しかも、己の無力に居直るというのは、人間として上等じゃないね。

甲:それならば、逆に「善い評論家」とは、如何なる性質の人間を指す言葉だろうか? 彼らは理窟を巧みに用いるが、それを単なる理窟に終わらせず、具体的な現実との聯関を絶えず重視するのではないだろうか? つまり、実践的な知識を重んじるのではないか? 現実から遊離した知識をパズルのように玩弄するのではなく、それを如何に現実と結び付けるのかを熱心に考え、場合によっては人々に向かって助言したり提案したりするのではないだろうか?

乙:まあ、それに関しても概ね異論はないね。だが、直ちに実践に結び付き得ない知識や認識が存在することも事実だろう?

甲:直ちに結び付くかどうかは重要な問題じゃないよ。大切なのは、それを取り扱う人間の方針の性質さ。現実と結び付かない知識を、努力して現実と結び付けようとせず、そのままに蒐集して羅列して悦に入っているような人間は、如何に博識で優秀な頭脳の持ち主であっても、人間としてのレヴェルは低いと思わないか? いわばデータベースのように、蒐集した知識の多寡を競い合うような精神性は、幼稚なものだ。蒐集された知識を用いて、それを何に活かすのかを考えるのが建設的な姿勢だと思わないかね?

乙:君の言いたいことは分かる。正論であると認めよう。だが、役に立たない知識であっても、それを知ること自体に精神的な快楽が附随することは、君も認めるだろう? つまり、蒐集家の歓びだ。ワインでも切手でも古銭でもいい。昆虫採集でも稀覯本の蒐集でもいい。何かを蒐集することのマニアックな快楽、その価値を君は声高に糾弾するのかね? それは余計な御節介だと思わないか?

甲:知識の蒐集そのものに付き纏う快楽を、認めるかどうかという話かね? それは無論、勝手にどうぞという話だ。個人の趣味が犯罪的なものでない限り、それを他人が批判する筋合いもないだろう。だが、少なくとも知識の蒐集という快楽が閉鎖的なものであることは事実だろうと思うね。その知識が他人の役に立つものであれば、その知識は社会的な関係を切り拓くものとなるだろう。けれども、何の役にも立たないのであれば、それは個人的な愉しみの糧に過ぎないということになる。

乙:君の論調だと、そういう社会的に開かれていない知識の蒐集に耽溺することを批判したい訳だね? だが、それは君自身が先ほど言った通り、個人的な趣味の問題ではないかね? 自分のあらゆる個人的な愉しみが、他人の役に立たないことを理由に批難されるというのは、随分と息苦しい話じゃないか。

甲:それは確かに、君の言う通りだな。他人の役に立つ、つまり何らかの社会的価値を自分自身に賦与するのは大切な心掛けだ。だが、それだけで生活の総てを覆い尽くすというのは、いわば皇族のように、極端に社会化された身分に自己を据えるということで、誰にでも耐えられる話ではないだろうね。

乙:もう少し話を進めてみると、要するに君は「知識の公共性」に関して論じたいと考えているんじゃないかね? 実践ということが問題になるのも、結局は、個人の持っている知識が死蔵されることへの懸念が関与しているように聞こえる。そもそも、知識というのは公共的なものだ。社会的な関係を通じて、個人によって分有されるものだ。それを独占的な仕方で蒐集し、愛玩することに対して、君は道徳的な嫌悪を覚えているんじゃないか? 君はマニアックな愛好家を嫌ってるんじゃないかい。

甲:まあ、そういう主観的な傾向が存在することは認めよう。ただ、知識の蒐集そのものを批難しようとは思わない。それを否定したら、あらゆる学習は成立しなくなるだろうし、知識の不在が我々の生活を肯定的な方向へ導いてくれるとは思えないからね。恐らく、私が言いたいのは、こういうことだ。知識の蒐集そのものを論難しようとは思わない。ただ、知識を実践に繋げる為の知性の働きは、知識そのものから生まれるのではなく、行動によって鍛えられるのだということだ。

乙:知識そのものと、知識を行動や実践に結び付ける技術とは、相互に異質なものだと言いたいのかね? つまり「知識」と「知性」とを弁別する通俗的な議論を信奉している訳だ。

甲:それが通俗的かどうかは知らないが、その微妙な差異を認識することは重要な心掛けだと私は思っているよ。例えば学習された「知識」と、学習という行為そのものは同一ではないと君は思わないか?

乙:まあ、区別をするのは自由だと思うよ。だが、両者の差異を明言出来るかと問われれば、聊か答えに窮するのが実情だね。それは随分と抽象的な議論のように聞こえるからね。

甲:よく引かれる譬えだが「畳の上の水練」という諺があるね? 或いは「机上の空論」という言葉を、君も知っているだろう? 言葉で伝えられた知識を、実際の技術として運用するのは簡単なことじゃない。知識の把握そのものは、知識の実践の成功を保証しないんだ。口頭で説明されただけで、経験のない人間が車を自在に運転出来ると思うかい? 仮にそういう人間がいたとしたら、その人間の知性は驚嘆すべき発達を遂げているということになるだろう。

乙:知識を技術に変換し得ることが、所謂「知性」の主要な機能であると君は言いたいのかね? だからこそ「知性」を欠いた人間が、知識の蒐集に明け暮れている姿を見て、不満を禁じ得ないんだろう?

甲:まあ、そういうことになるかも知れないね。知性の働きは、いわば「知識」と「現実」との間に通路を掘削する力のことだ。頭の中身を、外側の現実に結び付ける為には、そういう隧道の掘削技術が欠かせない筈だと私は思う。「知識」を「現実」の裡に展開する力と呼んでも構わない。それこそが本当の意味で「知性的である」ということになるんじゃないだろうか。知識そのものは、いわば脳味噌の中に蓄えられた電気的な信号の束のようなものだ。その状態では、知識は社会的で現実的な価値を発揮することが出来ない。それは誰の眼にも映らないし、現実的な効果を示すこともないからね。

乙:知識を「外在化する」ことが肝要だと言いたいのかね? 内在的な知識は眼に見えず、形状も持たず、従って実際的な影響力を欠いているのだと。だから、それを眼に見えるものへ転換することで、一種の社会的な効果を担わせるべきだというのが、君の意見かね?

甲:そうだね。知識は内在的な状態においては、一つの潜在的な可能性のようなもので、現実的には不在であると言うべきだろう。それが外在化されるとき、その知識は他人に伝達されたり、或いは実際の行動に役立てられたりする訳だ。その意味では、議論は君が先刻示してくれた要約の時点に回帰することになるね。つまり、私が「知識の公共性」に関心を持っているのではないかという、君の適切な要約の許へ舞い戻る訳だ。

乙:例えば切手の熱心な蒐集家が、同好の士と互いの大事なコレクションを見せ合って、如何にも愉しげに、専門的な談義に興じている光景を想像してみよう。そのとき、蒐集家の有する知識は専ら、相互の内密な快楽の為に捧げられている。これに君は「公共性」の成立を認めるかね? それとも否定するのかね?

甲:それは程度の問題だと答えておこう。片方の蒐集家の該博な知識が、もう一方の蒐集家の知的な興奮を喚起するのであれば、確かに彼は狭義の社会的価値を提供していると言えるだろう。その意味では、極めて狭小な範囲に限られた話であるにせよ、彼の知識は他者の幸福に寄与している訳だ。それは確かに社会的価値の発揮であり、知識の公共化に他ならないと、私は思うね。

乙:なるほどね。仮にその蒐集家が、切手に関する該博な知識を信頼されて、例えば国家の然るべき部局から、新たな切手の発行に関する意見を求められたり、斬新な意匠の考案に参加してくれるよう頼まれたりすれば、彼の知識は益々社会的に有用であると認められることになるのかな?

甲:そうなるだろうね。そこまで磨き抜かれた知識ならば、つまり、それだけ外界の現実に影響を及ぼし得るほどの知識ならば、それは充分に公共化され、外在化されていると言えるだろう。つまり、実践的知性の働きが発達しているということになるだろうね。

乙:或いは、このような角度から、同じ問題を改めて照らしてみることも可能ではないだろうか? 引き続き蒐集家の事例を用いて考えてみよう。彼の知識は、既に確立された知識の蒐集に留まるものではなく、それを基礎として新たな知識の創発に貢献したのだと。その意味で、彼の実践的知性は創造的なものであり、単なる知識の死蔵とは異質なものなのだと。どうかね、僕の提案は気に入らないかね?

甲:いや、面白くて刺激的な意見だと思うよ。つまり君は、知識を「過去」及び「未来」という時間的な尺度に基づいて捉えてみた訳だね? 古びた知識は、いわば過去の実践の成果であって、それを覚え込むだけでは、過去の実践の軌跡を想像的に追跡することでしかない。しかし、新たな実践を生み出すのならば、それは同時に新たな知識の創出を意味する訳で、それは明らかに知識の外在化、しかも最も優れた外在化の事例ということになるだろうね。ただ、それは聊か理想的な議論であって、それを外在化の理想として掲げることは結構だが、外在化の普遍的な定義として用いるのは、少し無理があるように思えるね。

乙:君はもう少し初歩的な事例も視野に収めているということかな? 例えば、該博な教師に手取り足取り基本的な泳ぎ方を教えてもらいながら、実際に練習に明け暮れている子供のような事例を考慮して、実践に関する議論を展開しているのかね。それは新しい泳ぎ方の創造ではないが、確かに一つの立派な実践であると君は言いたい訳だ。

甲:概ね、その通りの意図だよ。内在的な知識を、現実の中に展開するということ、その為の「知識」或いは「技術」の涵養が、本当は最も大事なことなんだと私は言いたいんだ。技術そのものの仕上がりや威力に関して、個体差が存在するのは止むを得ない話だろう。達人と素人との格差を難詰するのは、最も不毛な議論だからね。

乙:君は「知識」を外在化する能力を指して「技術」という言葉を使おうと考えているのかね? いわば「実践的知識」とは「技術」であるという用語法を選ぼうとしている訳だ。

甲:その結論に反駁の余地はない。少なくとも私は、君の要約に賛成する積りだよ。「知識」と「現実」とを結び付けるものは「技術」であり、そして「技術」は「実践」によって鍛えられるのだと定式化してみよう。逆に言えば「技術」とは「知識」を「現実化」する能力のことなのだと。そして「技術」の向上は単なる「知識」の増殖によっては獲得されない訳だ。「知識」は飽く迄も「技術」の対象であって「技術」そのものと同義語ではないからね。「技術」は「知識」と「現実」との接点を探し出し、両者の間に通路を開く営為のことだ。そして我々の存在における「内在的領域」と「外在的領域」の接点、或いは境界が、この「肉体」であることを考えれば、「技術」とは或る肉体的な能力であるということになるだろうね。