サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

対話篇「関係化の技法」

甲:今回は、先達て君と議論したときに我々の間で合意に至った問題に就いて、もう少し敷衍して考えることは出来ないかと思っているんだ。

乙:具体的には、どういう話だい? あの「知識」と「実践」とを巡る煩瑣な議論の続きをやりたいという意味かね? 君も相変わらず物好きというか、凝り性な男だな。

甲:要するにそういうことだ。まあ、私の性格に就いてはどうか寛容な態度を以て接してもらいたいね。三つ子の魂は今更どうにも書き換えようがない。私が考えているのは「技術」という言葉を使って我々が論じていた内容をもっと深めて、洗練させたいということなんだよ。

乙:あの議論では物足りないのかね? 知識と実践とを結び付け、知識を外界の現実の裡に展開する為には「技術」が必要だということに関して、我々は一定の合意に達した。それだけでは、君は不満足だと言うのかい?

甲:「技術」という言葉の意味をもっと厳密に解釈してみなければ、それ自体が、実践的な知識として我々の生活の役に立たないじゃないかと思った次第さ。そうだろう? 「技術」という言葉を純然たる呪いの文句のように幾ら振り翳してみても、それだけでは少しも実践的ではないと思わないか?

乙:君は非常に面倒な男だ。そんなに理窟っぽいようでは、女性に嫌われるだろうね。

甲:それは聊か差別的な言辞じゃないかね? 女性に対しても、私に対しても。

乙:まあ、その点に就いてまで長ったらしい議論を繰り広げる意欲は生憎、皆無だ。さっさと本題に移ろうじゃないか。どうせ長引くことになるんだろうから。

甲:御要望通り、そうさせてもらおう。果たして「技術」とは具体的にどんなものか、ということを君と話し合いたい訳だ。君はどのように考えるかね?

乙:僕の意見かい? 君と話し合って合意した内容に、特段の不満はないがね。要するに「知識」を具体化する為の力が「技術」であると我々は結論したじゃないか。

甲:その点に就いては、確かに合意は成立した。だが、それだけで物事の仕組みが総て解明された訳じゃない。技術と知識は同じものではないが、技術が固有の知識を伴わないとは言えないだろう? つまり、私は「技術に固有の知識とは何か」という問題を発案したのさ。

乙:「技術に固有の知識」とは、一体どういう意味の言葉かね? それは所謂「知識」とは異なる何かだと、君は推量しているのかい。

甲:要するに、そういうことだ。少なくとも、我々は「知識」と「技術」との間に或る境界線を設定した。内在的な知識を外在的な現実へ変換する為の知性的な働きを、我々は「技術」と呼ぶことに合意した。その上で、私は敢て問いたい訳だ。「技術」の裡にも何らかの知識は潜在しているだろう。恐らく、それは我々の「行動」に関する具体的な指示のようなものではないだろうか?

乙:なるほど。何となく要領が掴めてきたよ。要するに君は「実践的知識」というものの具体的な定義を欲しているんだろう。

甲:そういうことだね。だが、それほど明瞭な見通しを事前に確保しているという訳じゃない。若しもそうならば、君と殊更に議論の時間を持つ意味が生じないからね。言い換えれば、知識には抽象と具象の二つの範疇があるという、当たり前の図式にもう一度着目すべきじゃないかと考えているんだよ。

乙:行動に関する具体的な指示のようなものが「技術」に固有の知識であると仮定するならば、実践的知識は具象の分野に属するという訳だね。

甲:そういうことだ。同時に我々は「内在的知識」という言葉に関しても、若干の表現上の変更を試みるべきだろう。それは要するに抽象化された、離散的で綜合的な知識だという風に捉えるべきじゃないだろうか。

乙:おいおい、そんな難解な言い方をされても、議論が混乱するだけじゃないか。もう少し明晰な表現に変えてくれよ。

甲:要するに知識というものは、それ自体では抽象的であったり具象的であったりするだろう? 内在化された知識とは、いわば抽象化された知識のことで、それを外界の現実の裡に展開するということは、言い換えれば抽象的な知識を具象化するということだ。これで伝わるかな?

乙:何となく分かるね。カメラのレンズに譬えるようなものかな。航空写真と顕微鏡の画像のように、いわば認識の次元を調整する作業が「実践」であり「技術」であると。

甲:そういうことさ。君は呑み込みのいい生徒だ。勲章を授与しよう。

乙:君の生徒になった覚えはないね。勲章にも興味はない。さっさと続きに取り掛かろうじゃないか。

甲:性急な男だな。まあ、いいだろう。抽象的なものと具象的なもの、或いは知識と行動との関係を考察するに当たって、差し当たり私に思い浮かぶのは、地図を読みながら知らない街を歩いて目的地へ向かうような場合だ。地図というのは、明らかに抽象的な情報だね? 一つ一つ形も見た目も様々であるような道路が、一本の着色された線描に置き換えられているのだから。

乙:まあ、抽象化するとは、そういう風に情報を圧縮するというか、削減することと同じだろうからね。

甲:そうだね。地図を読めるという能力は、紙の上やスマートフォンの画面に書かれた線描と、目の前に存在している道路とが同じものであるという認識を持ち得る能力のことだ。抽象的なものと具体的なものとを同定している訳だね。実践的な知識というのは、こういう同定や置換を指しているのではないだろうか。抽象と具象との間を往復するという能力こそ、所謂「技術」の本質であろうと私は思うんだよ。

乙:異論はないね。続けてもらおう。

甲:ありがとう。以前の議論で、私が死蔵された知識に価値はないと断定したのを覚えているかい?

乙:無論、記憶しているとも。

甲:あの議論に関しても、表現を革めるべきじゃないかと思うんだ。抽象的な知識であろうと具象的な知識であろうと、それらの知識を相互に連結したり切り離したりする能力が、知性の主な役割だね?

乙:結論として、何が言いたいんだい?

甲:例えば抽象的な知識、つまり地図に記された道路の記号と、具象的な知識、即ち現実の道路に関する視覚的な情報とを結び付けることは、知性の重要な働きの成果だ。言い換えれば、異なる表現を与えられた情報や認識の間に、同一性という関係を発見する力が、知性の働きだ。違うかい?

乙:その通りだと思うよ。ただ、それと死蔵された知識の話とは、どう関連するんだい?

甲:死蔵された知識とは、他の知識との間に如何なる関係も持ち得ないような、断片的な状態に置かれた知識のことを指すのではないかと思うんだよ。それは知識そのものの具体的な内容とは無関係に附加される属性だ。誰がその属性を賦与するのか? 無論、その知識の所有者である個々の人間が附与するんだろうと、私は考えているんだ。

乙:断片的な知識を無闇にコレクションしても無意味だと言いたいのかね。

甲:そうだね。例えば、幾ら地図記号に詳しくても、それを現実の地理学的な対象と結び付ける能力がなければ、地図記号に関する詳細な知識は価値を持たないね? それが「死蔵される」という修飾の意図さ。悪しき評論家は、例えば様々な文学作品における表現や、文学史における様々な流派の特徴を悉く諳んじているかも知れない。けれども、そうした知識が、執筆の現場において求められる知識との間に関連を持たないのならば、彼の知性は「実践的」という評価を享けられないのではないだろうか?

乙:なるほどね。そういう議論の図式においては、恐らく「抽象」と「具象」との間の関連を把握する知識というのが、重要な役目を担うだろうね。それが「実践的知識」であり、或いは「技術に固有の知識」ということになるのかな。

甲:少なくとも我々の定義する意味での「技術」という単語は、正に「抽象」と「具象」とを関係化する能力のことを指していると言い切って差し支えないだろうね。性質や次元の異なる認識同士の間を自在に往復する力、と言い換えても構わない。例えば「理論」と「行動」という二元論的な図式は、正に「抽象」と「具象」との関係性の転写された姿だね。そのように考えていけば、例えば我々は「悪しき行動家」に関する想定も行なうことが出来る訳だ。

乙:一切の抽象的な思考から切り離された、極端な行動家という訳かい?

甲:そうだ。そういう人物は、例えば自分の仕事の手順や方法を何も、言葉で他人に説明することが出来ないだろう。言葉とは正に抽象的な記号の体系だからね。寡黙な職人を侮蔑する意図はないが、例えば彼らは言葉に頼らず、感覚で物事を捉えたり解釈したりすることに長けているだろう。それ自体は素晴らしい能力だ。だが、自分のやっていることを抽象的な情報に置き換えられないというのは、問題だと思わないか? 極論を言えば、彼は一代限りで断絶する職人だ。弟子を育てることも、世間に自分の技術を広めることも出来ずに、ひっそりと絶滅していくのだ。言い換えれば、彼は具体的な行動の内部に幽閉されているんだよ。

乙:口先ばかり達者で何も出来ない人間も困るが、行動する以外に何も出来ない人間というのも同じように危険だね。それこそ極論を言えば、彼は眼に見える範囲でしか、自分の行動の及ぼす影響や生み出す結果を把握し得ないということだろうから。

甲:正にその通りだね。我々の知性が実践的である為には、つまり有効に機能する為には、様々な情報や認識を自在に結び付ける発想や柔軟性、創造性が求められる訳だ。行動一点張りも、理論一点張りも同じように宜しくない。眼前に存在する些細な風景から、如何に多くの情報を喚起出来るか、これが知性の水準の高さを規定する重要な試金石だと私は思うんだ。石を見たら石としか思わない人間より、例えば石の色や形状から、石の性質に関する知識を想起し得る人間の方が、より賢明で実践的だと思わないか? それこそ、知性の尊厳であり矜持であると言えるんじゃないだろうか。

乙:概ね賛成だ。刺激的な考察だと思うよ。そして、君の議論を更に敷衍するならば、我々はどうやって異なる知識を、どのような仕方で関係化するのか、ということを具体的に研究してみるべきじゃないかね? 例えば抽象化という知性の働きは、醸造酒から蒸留酒を作り出すように、何らかの規則に従って「要約する」ということだね? この「要約」を可能にする働きとは、一体どのようなものなのか、君には説明出来るかい?

甲:はっきりと明確な答えを持っていると、自信を持って断言することは、正直に言えば難しいが、取り組んでみたいとは思うよ。何と言えばいいのか、要約するということは、或る共通項によって、個々の事物や要素を纏めてしまうということだろう。バラバラに散らばっている様々な種類の書物を、その形状や内容に就いては不問に附した上で、一つの「本」という名前の下に集約してしまうようなことだ。言い換えれば、それは一定の条件の下に、個物の間の色々な相違点を黙殺するということだね。

乙:君の言いたいことは分かる。つまり抽象化という作業は、そうやって情報の分量を削減し、圧縮する知的な作業のことだね? それは一体、如何なる目的の為に行われるのだろう?

甲:端的に言えば、それは物事の見通しを良くする為ではないだろうか。視野を広げると言ってもいい。地図の解像度を都合に応じて調整するようなものだ。遠方の土地との位置関係を確認したいときには、我々は地図の解像度を粗くして、大まかな情報だけが自分の視野に映じるように操作するだろう。逆に詳しい道順を知りたい場合には、我々は解像度を高めて、例えば道路の僅かな湾曲や細い路地の位置などにも眼を配るようにするだろう。抽象化は、広い範囲の物事を、限られた意識の領野に映し出す為の重要な知的調整なんだと結論して差し支えないと思うよ。

乙:なるほどね。そうだとしたら、抽象化という作業の根底には必ず「同一化」という認識の働きが関わっていることになるね? 物事の共通項を発見して、それを基準に一つの「集団」を作り上げることが抽象化の重要な第一歩だとするならば、我々は先ず、共通項を見出す為に「同一である」という判断、或いは認識の形態を生み出さなければならないね。同時にそれは、根底において「比較」という作業を必ず含んでいる筈だ。そもそも「比較」という作業が存在しなければ、我々は一切「同じ」とか「異なっている」とか、そういった判断を下すことが出来ないだろうから。

甲:君の言う通りだと思うよ。恐らく「比較」ということは、二つの情報を同時に並べて把握するような認識の「場所」の存在を前提としている。それならば、君の言う「比較」という作業の根底には更に「分割」とか「境界線の設定」とでも呼ぶべき作業が潜在しているのではないだろうか? 境界線を引くということは、我々の認識や思考の最も根源的な基層の次元に存在しているんじゃないだろうか。認識の「分裂」と呼び換えてもいい。そういう根源的な分割が、あらゆる場面における知識の「関係化」の奥底で日夜、殆ど自動的に実行されているんじゃないだろうか。

乙:なかなか興味深い提案だね。それをもっと突き詰めてみることは出来るかい?

甲:そうしたい気持ちは大いにあるが、今日はもう草臥れてしまったよ。喉も随分と渇いてしまった。冷たいコーヒーでも飲みに行こうじゃないか。