サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(最善を尽くせ)

*纏まらない頭の中身を垂れ流すようにキーボードを打つ。

 合理的な精神は、無理や無駄を嫌う。効率の悪いことを蛇蝎の如く忌み嫌う。最初から総て正解が見えていればいいのにと、不合理な現実の厄介な性質に歯咬みする。成程、最初から正解が分かっていることならば、世界の眺望はきっと澄明で、他人が皆、度し難い阿呆に見えるだろう。既に真理が確立され、明瞭に開示されているならば、手探りの格闘など馬鹿げている。暗愚と蒙昧の覆いを取り払って、真実だけを見凝めながら、最適の解答だけを選び続ければいい。若しも、私たちに超越的な絶対者を名乗る資格が認められているならば。

 だが、合理主義の開祖であるかのように見えるプラトンでさえ、自分自身を神に擬えようとはしなかった。生きている限り、真実在の叡智に到達することは叶わないという「パイドン」における諦念は、彼の謙虚で現実的な側面を僅かに暗示している。一体、誰が総てを透視し得るだろう。どんなに発達した知性が存在したとしても、予め総ての答えを完璧に誂えておくことなど出来はしない。真実在、それが世界の明瞭な実相であるのだとしても、或いは世界を構成する根源的な規則の束なのだとしても、それが確かに受け取れないのならば、何の意味があるだろう? 勿論、一文の価値もないなどとは思わない。だが、それは実践的な性質に関しては少なくとも問題の多い発想だ。

 「最善を尽くせ」という言葉の意味は曖昧だ。それは合理的な精神から眺めれば嘲笑すべき呪符であるだろうか? 何を以て最善と看做すのか、最善であることが分かっているならば、それを選ぶのは自然なことだと、合理的精神は冷ややかな表情で言い捨てるだろうか? だが、この場合の「最善」とは、確実で堅牢な選択肢のことではない。この言葉が意味を持つのは、合理的な精神が不可能であるような世界に限られている。尤も、それは合理的な精神の意義を軽視することと等価ではない。頭を使って考えずに闇雲に行動して、それが「最善」だと開き直るのは愚の骨頂、そもそも論外だ。我々は必死に考え、総てを知ろうと努力すべきだ。けれども、どんなに努力しても不可知の領域が残存することは避け難い。知性の限界は、人間が世界に内属する相対的な存在である以上は不可避の宿命なのだ。

 考えても考えても分からないけれど、それでも考えて答えに至ろうとするとき、或いは具体的な行動を通じてそこへ辿り着こうと試みるとき、人間は自ずと「最善」に手を伸ばす。それは「完璧」を欲することとは決定的に異質だ。完璧でありたいと願うことは寧ろ、あらゆる不可能な挑戦を停滞させる危険な思想である。真理から逸脱し、正義に抵触することを懼れていたら、我々は街角のコンビニへ買い物に出掛けることさえ出来ない。「分からないから考える」という行為は、不合理だろうか? 分からないことを考えても無意味だ、という断念は賢明だろうか? 私には今、そういうシニシズムが何よりも薄汚く惨めに思われる。誰が正解に安住する権利を持つだろう? その正解が未来永劫、絶対に確実だと言い切れる保証があるだろうか? 「人間は必ず死ぬ」という絶対的命題でさえ、今後永遠に普遍的であるとは言い切れなくなる。不老不死が実現したとき、地上に存在する数多の思想は無効化を強いられ、普遍的真理は改訂を命じられるだろう。私たちの信じる真理が砂上の楼閣であることは疑いを容れない。人間の体に宿った賢しらな知性が、森羅万象の真実を漏らさず把握出来る理由はない。けれども、真理を求めようとする欲望自体は健全な衝迫だ。それは人間の本質的な価値や尊厳に関わっている。

 分からないから考えるのだ。知らないから学ぶように、出来ないから行動するように。分からないから考えない、という結論は頽廃の尽きせぬ源泉である。知らないからどうでもいいと無関心を決め込み、従来の枠組みや図式に逼塞し、千篇一律の有難い「真理」を神棚に上げて拝むのが、人間の素晴らしい姿だろうか? 知らないからどうでもいいなら、人間の知性は発達し得なかっただろう。捉え難いものを捉えようとする類的な執念がなければ、今日の文明の発達は成し遂げられなかっただろう。見えないもの、捉え難いものを知ろうと齷齪する愚かしさが、知性の根源である。ソクラテスの哲学は、正にそうした実践的性質に基づいていたのではないか。

 プラトンの築き上げた壮大な体系は、空虚な真理に基づいているかも知れない。けれども、そうした真理を構築する過程で営まれたプラトンの思想的な実践は偉大なものだ。大半の人間は「国家」のように長大な議論を自分の頭で考え抜く知的体力を欠いている。考えることは、本来は実践と分ち難く結び付いている。それを切り離して相互に連絡し難い特質のように看做すのは、実は合理的精神、普遍的精神の仕業かも知れない。分からないから考えないと決めたとき、そこから一足飛びに、人は感覚的な行動に溺れ、明確な方針も持たずに揺れ動き、風に遊ばれる風見鶏のように本質を、自己同一性を見失う。考えることと行動との分離は、こうした風見鶏への堕落の瞬間に形成されるのだ。逆に考え続けることは、自ずと本質的な行動へ人を導くだろう。一体、そのとき何に向かって人は考え続けているのか? それは事前に確立された真理ではなく、刹那的に変動する彗星の如き曖昧な真理である。蜃気楼のように、それは必ず視野の最果てに佇み、展がっている。無限に遁れていく真理の幻影は、寧ろ真理という概念の最も建設的な作用の形式かも知れない。ソクラテスの探究が常にアポリアに帰結するように。

 恐らく人間の堕落を齎すものは、苦悩そのものではなく、苦悩に堪え得る持久力の不在である。苦悩の裡に留まる覚悟を持たなければ、人間は直ぐに安易な結論に縋って、その仮初の居心地の良さに酩酊してしまうのだ。それを「現実逃避」と人は呼ぶ。坂口安吾が「苦しむこと」と「人間の尊さ」とを接続して示したのは、故なきことではない。人間は確定した満足に溺れることで堕落する。言い換えれば、幸福は人間を堕落させ、その尊厳を腐蝕させるのだ。自分だけの安閑たる幸福に自足している人間の閉鎖的な性質を、私たちは祝福すべきだろうか? 苦しみを知らぬ人間に、他者の苦しみを救済する力は決して宿らない。どういう立場であれ、一つの固定した結論に常住している人間の助言や忠告は常に虚しい。不安定な人間だけが、私たちの苦悩を和らげる光源となり得るのだ。苦悩から逃亡すること、あらゆる悩みから救われることが真実の幸福ならば、人間は生涯孤独でも構わない筈だ。孤独の裡に確乎たる安楽が存在するならば、苦悩など紙屑に過ぎない。けれども、人間は孤独を懼れる。それは苦悩が人間の義務であり生命の本質的な大動脈であることを密かに知悉しているからではないか。私は苦悩の裡に佇んで最善を尽くしたい。それ以外に生きる歓びが有り得ようか。