サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(運命を嘲笑せよ)

決定論の思想は、物事を因果律に基づいて如何にも鮮やかに綺麗に整序する。そうやって物事を遠く彼方の淵源から順番に連鎖させ、原因によって結果は必然的に決定されると看做す。それを別の言葉に置き換えれば「運命による支配」ということになる訳で、世界を決定論的に捉えるかどうかという問題は、人類の歴史において長年に亘って議論が交わされ続けている重要な議題である。

 例えば自然科学の世界においては、このような決定論的骨格を明らかに実証することが求められている。所謂「再現性」という理念は、こうした決定論的要請に基づいて組み立てられた認識論的規範である。決定論の枠組みにおいては、原因と経過が同一であれば、導き出される結果は同一になるものと考えられるし、そうでなければ、提示された実証的学説は不充分なものであると看做されて「仮説」の状態に差し戻される。再現性のない仮説は、充分な決定論的根拠を備えていないことを理由に、科学的真理の称号には及第しないのである。

 だが、我々の生活は、そうした科学的真理の示す規矩には従属しない。我々に求められているのは決定論的な運命の威力に頭を垂れて隷属することではなく、寧ろ再現性の圧力に叛逆することが最も肝要な選択なのである。それは「前例主義を廃する」ことと同義だ。或る意味では、科学的探究の目的は認識において「完璧な前例」を構築することと重なり合っている。入力と出力との間に明確で一義的な規定を導入すること、そういう学説を理論的にも実証的にも作り上げること、それが自然科学における努力の正統な様態である。だが、実際の人生において、こうした決定論的発想を極度に称揚することは、あらゆる退嬰の基礎を成すものである。例えば門地や性別によって必然的に自己の人生の行路を定められること、生まれた瞬間に死に至るまでの行程の一切が事前に決定されていること、こうした考え方は人間の尊厳を最も堪え難い方法で毀損し、堕落させる。遺伝子にしても、幼少期の環境にしても、経済的格差にしても、それらの書き換え難い先験的な条件によって後の人生の結果が一義的に決定されるという発想には、人間の自由意志を認める理由が含まれていない。これは運命に対する隷属が不可避であることを強調する思想である。だが、私はそのような無気力な考え方には与しない。大体、そんな考え方は退屈で不毛である。仮に決定論的な因果律が事実であったとしても、それに服属するか抵抗するか、それは人間の判断が定めるべき事柄である。運命は、或る普遍的な法則に基づいて我々の実存を呪縛するだろう。だが、呪縛されたからと言って、殊更に従順に振舞う必要は毫も存在しない。我々は奴隷であっても、奴隷らしく振舞う義務を負っている訳ではない。主人に敵対する奴隷が存在しても構わないではないか。

 運命が手強い主人であり支配者であることは私も認める。人間の個人的な抵抗が齎す果実の総量は常に乏しく、変革は常に小さく貧しい。けれども、その貧困を態々危惧する必要が何処にあるだろうか? 人間が「葦」に過ぎないのは数百年前、或いは数万年前から既に自覚されている無味乾燥な真理である。けれども、人間は「考える」能力によって、単なる「葦」であることを免かれている。この「考える」という能力は、決定論的な構造や秩序に対する抵抗の手段である。若しも人間が「本能」の奴隷であるならば、環境からの入力に対する生命的な出力のパターンは常に単一であり、そこに厄介な振幅が生じる見込みはない。だが、人間は本能から遠ざかり得る生き物であり、自然な欲求を幻想の力で多様化したり膨張させたりすることの出来る特異な存在である。それは決定論的な機序の何処かに「エラー」を生じさせるということだ。その微細な「エラー」の裡に人間の有する無限の可能性が宿っている。

 エピクロスの偏差的原子論は正に「クリナメン」(clinamen)という原子の僅かな「ブレ」を持ち出すことによって、単なる決定論の機序に亀裂を走らせている。それは無論、運命の支配を無効化する画期的な特効薬という訳ではない。エピクロスの見解は常に極めて穏当で、過激な急進性とは無縁である。言い換えれば、彼の偏差的原子論は決定論そのものの否定ではなく、因果律の完全な継起が時折「誤差」を含み得るという控えめな認識の提示なのである。その控えめな提示の裡に自由意志の萌芽が宿っている。それは揺り起こされ、目覚めようとしている。「覚醒」は「運命による絶対的支配」の法網の中に僅かな抜け道を発見することと同義だ。我々は運命に骨の髄まで犯されながらも猶、微細な選択の積み重ねを持続する力を隠し持っている。その微細な選択が、重要な分水嶺の役目を担うことも珍しくないのだ。だからこそ、運命を言い訳に用いてはならない。星占いの預言を根拠に用いて人生を事前に設計してはならない。あらゆる認識は事後的なもので、実践の渦中には間に合わない。認識は何時も必ず現実に対して出遅れている。流動し、変容し続ける生活の過程で、事後的な認識を捏ね回すのは、現実の不可避的な性質を論証する為ではなく、新たな未来、前例から逸脱した未来を作り出す為の手続きであるべきだ。前例を理解することは、それを踏襲する為ではなく、そこから脱却する為である。前例を免かれる為に前例に関する一切の知識を拒絶することは、つまり歴史的過程に対する完全な峻拒は、寧ろ前例の無自覚な反復を齎しかねない。必然性の繰り返される再現、永劫回帰、そこから脱け出す為の方策こそ「考える」ことの本義である。この場合の「考える」という言葉は、単なる事後的な理論を意味するものではない。考えることは行動することと不可分の関係で結び付いていなければ意味がない。

 運命の強靭な支配を自由に操ろうと私は無謀にも企てているのではない。個人の意思で自由に操作し得るものは「世界」でも「宇宙」でもない。「必然」の重たい鎖が人間の実存を時に容易く叩き潰すものであることは、日々テレビやネットで報道される不幸な事件や事故を徴すれば直ちに明らかである。けれども、我々の矮小な努力は、必然性の軌道を僅かに逸らすことぐらいは出来る。突発的で偶然的な偏差が、我々の決まり切った保守的な日常に小さな揺らぎを招き入れる。その小さな転轍が、運命を掻き乱すということだ。掻き乱された運命は、当初の僅かな偏差を徐々に加速度的に膨れ上がらせて、我々を見知らぬ境地へ案内するだろう。数十年前の果敢な決断を、或いは記憶にも留まらぬ些末な決断を、時に思い返しながら、我々は見知らぬ明日に向かって不断に歩み続ける。己が運命を嘲笑せよ。