サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(常に「此処」から始まる)

*人間は色々の先験的要件に規定されて人生を始める。誰も自分の意志で生まれるときや場所を選ぶことは出来ない。血筋も門地も性別も家産も、肌や瞳の色も、時代や国籍も任意に選択することは出来ない。出生は購買でも消費でもなく、ただ受動的に配給される奇蹟的な恩寵である。それを呪わしいことだと恨む人間も少なくない。何でこんな無細工な顔に産んだのかと親を詰る不孝者もいるだろう。或いは人生の途次、茫然自失するような途轍もない逆境に遭遇して天を呪う者もあるかも知れない。縊れて死んだ方がマシだと喚き散らしたくなる夜もあるだろう。だが、そんな悲嘆に何の意味があるのか。それは所詮、自己憐憫の感傷ではないか。抒情的な夜は美しいが、現実は常に雑駁で散文的に仕上がっている。如何なる美談も英雄譚も、その表皮を剥いてしまえば俗塵に塗れて輝きさえ伴わない。それが巷間の実相である。だから厭世的な思想の擒になるべきだろうか? そんな筈はない。確かに我々は様々な不幸に包囲され、何れにせよ有限の儚く脆い生命しか与えられていないし、そもそも自らの積極的な意志で望んで生まれた訳ではない。

 過日、妻が三歳の娘に、ママの御腹の中にいたときのことを覚えているかと訊ねたら、本人は間髪容れず、ママの御腹を沢山キックしていたと答えたらしい。実際、妊娠後期の胎動は劇しかった。足の強い児が生まれるんじゃないかと想像したものだ。何故キックしたの、早く外に出たかったのかと妻が訊ねると、違う、外に出たくなかったから蹴っていたのだと答えたという。事実、胎児は或る強制的な宿命や摂理に強いられて地上へ吐き出されるのだ。人は強いられて生まれ、訳も分からず日月を閲する。私もあっという間に三十三歳になった。望んでそうなったのではなく、世の中の、或いは宇宙の法則に強いられて、年齢を重ねただけである。

 だが、生まれたからには死ぬまで生きている。自ら首を吊る覚悟も持たないのであれば猶更、運命の打撃を浴びて押し潰されない限りは生きていくしかない。どうせ生きるのならば、より善く生きられるように努めるのが賢明だ。宿命を呪い、恨み言を円周率のように何処までも果てしなく羅列するような怠惰な生き方は御免蒙る。それはお前が恵まれているだけだと、厭世家は苛立たしげな顔つきで冷笑的に反駁するだろうか。だが、恵まれているならば猶更、恨み言を並べ立てる理由はなくなり、前向きに明るく人生を謳歌すれば良いだけだという結論に行き着く。

 世上に蔓延る幸福論には様々な種類のものが用意されているが、人間が若いうちから余りに性急に幸福を求め、安寧を欲しがるのは間違っているように思う。このような言い方は老害の前駆症状だと嗤われたとしても一向に構わない。容易く手に入る幸福には、強かな打たれ強さが欠けている。単なる自堕落な幻想の殻を、他人や社会に破砕されずに済んでいるというだけの話で、結局は他人からの稀有な貰い物に過ぎないのだ。それは自分の努力で作り上げたものではなく、一過性の恩寵である。流れに逆らって泳ぐ方が、流れに運ばれて河口へ辿り着く人間よりも、総身の筋力を鍛えられるであろうことは歴然としている。流れに運ばれるのは安楽な身分だが、自分で目的地を選び取る力は一向に育たない。途を選ぶ為には不断の鍛錬が要る。だからこそ、逆境と苦悩の意義は古来、多くの賢者によって尊重されてきたのである。

 尤も、私は過度な禁欲や道徳的な潔癖を評価している訳ではない。重要なのは、生き延びること、そして活路を切り拓くことである。清廉潔白の世評を得たり、他人から称讃を浴びたりする為に生きるのは本末転倒だ。確かにそれらは道徳的で社会的な快楽である。つまり、禁欲も清廉も煎じ詰めれば快楽の一種、欲望の一種なのである。快楽の良し悪しを論じても、それは所詮は個人の勝手であり、趣味の範疇に属する相対的な議論である。問題は、何らかの具体的な方向性を持つことだ。流れに運ばれながら、その流れに背いてみたり逸脱してみたりすることで、我々は新たな可能性、新たな航路を発見することになる。流れが何処へ向かっているかは、本質的な問題ではない。どの場所に浮かんでいようと、我々の出発点は常に自らの足許にある。不幸な境遇に限らず、過去の実績や栄光も、時間が経てば直ちに泡沫と化す。時に想い出を懐かしむのは結構だ。そういう郷愁の快楽に溺れるのも、それが暫時の感傷であるならば、ペパーミントのガムを咬むように快い習慣である。けれども、ペパーミントは我々の主食ではない。生きる為に必要な栄養を齎す主要な源泉ではない。過去は既に存在せず、我々の決断は常に現下の瞬間において重要な意味を持つ。過去が如何なる経緯を辿っていようとも、この瞬間の決断の内実は、この現下の瞬間において決定し得る。我々は限られた選択肢の中で、僅かな偏差の範囲内で、針路を革める権利を授かっているのだ。その権利を自ら放擲して運命の支配に屈従するのは、それが正当化され得る場合には、最大の安楽を供給するだろう。しかし、それは風に吹かれる花弁の安寧であり、確固たる基礎を欠いている。自分の力で歩むことを知らない人間に、本当の幸福は訪れない。いや、幸福という曖昧な観念に絆されることが諸悪の根源なのだ。幸福という停滞よりも、充実という名の躍動を愛すべきである。幸福は総てが終わった後に訪れる漠然たる余韻のようなものだ。若くして余韻を愛するのは健全ではない。余韻は、それ自体が目的とされることによって失われ、跡形もなく揮発する。同様に幸福もまた、それ自体を目的に据えてしまうと物事の歯車が狂い始めることになる。幸福は余慶であり、行動と苦闘の金利のようなものだ。金利を欲する前に先ず元本を稼ぎ出すことを真剣に考えるべきである。