サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(プラトンと「愛情」或いは「寛容」の問題)

*ここ数箇月、古代ギリシアの哲学者であり西洋思想の開祖にも位置付けられるプラトンの対話篇ばかりを読み続けてきて、知らぬ間に憤懣が溜まっていることに気付いた。

 プラトンの思想は本質主義的な性質を持ち、究極的には「正義」を重んじて、人間を一定の崇高な基準に基づいて選別し排除する原理を内包している。彼は「知」に対する愛情の価値を高らかに謳い上げるが、その求道的な探究は師父であるソクラテスの徹底した「無智」と「相対性」の思想から遠く隔たり、選良を重んじて俗衆を軽侮する息苦しい道徳的権威の王冠を被っている。

 因みに附言しておくが、これは令和元年の極東の島国に住する愚かな凡人の愚かな遠吠えに過ぎない。プラトンは紀元前から二千年以上に亘って、西洋思想の源流として絶えず参照され、夥しい註釈の試みられてきた偉大な人物である。その驚嘆すべき論証的思考力の前では、私の個人的な思想など憐れな顆粒の類に過ぎない。けれども、相手がプラトンであるからと言って、私の人生の主導権が彼の手に渡る訳ではない。プラトンの議論が如何なる帰結を齎そうとも、私の個人的な思考がそれに従属する理由はない。

 何が正しいのか、正義とは何か、という本質的思考は必ず選別と排除の手続きを含む。どれだけ美しく崇高な正義の内実が語られようとも、それが正義の規矩に適わない人間の排除を伴う事実は動かない。誰かが正しいと褒められ持ち上げられているとき、不可避的にその傍らに、不正であると看做された人間が佇んでいる。序列を定めたり性質を区分したりする論究の作法は科学的真理においては妥当であり正統なものであるが、それを人間に適合させるのは潜在的危険を孕んだ措置だ。

 例えばプラトンは詩歌や音楽や舞踏に関して、それが国家の守護者の育成に資するような性質を持つべきだと論じる。芸術を政治や教育に従属させる思考は、本質的には、芸術に固有の価値を軽視する発想の顕れである。芸術は何かを選別したり排除したりする為に存在するのではなく、寧ろあらゆる不可解な事物を包摂する「存在そのものの肯定」の原理に即している筈だ。何でもない一叢の雑草を描いてもそれが芸術的価値を帯び得るのは、その雑草が政治的、倫理的、経済的正義の規範に適っているからではない。それが単に現実の裡に存在しているという事実そのものの価値を認めなければ、芸術的営為は出発し得ない。

 しかしプラトンは肉体的感覚に基づいた認識の価値を否定する。超越的な理念を重んじ、現象界に属する事物は軒並み不完全な模造品として侮蔑される。剰え、完全な認識は生者の手に入ることがない、従って哲学とは死の擬制なのだと強弁する。死ななければ手に入らない認識を得ることが、生きることの目的だと論証する彼の彼岸的思考が、二千年に及ぶキリスト教神学の基礎を成したと看做されるのも頷ける話である。

 確かに人間が「彼岸」を想定し得るような強烈な想像力の飛翔を自らの手に備えていなければ、人間の尊厳の多くは消し飛んでしまうだろう。従って私はプラトンの真摯な論究を否定したいとは思わない。だが、私はプラトンの論理に従って生きることに嫌悪を覚える。道徳的な音楽、政治的要請に従属する音楽だけで占められた社会が、人間に対する普遍的な愛情と寛容に充ちていると、誰が信じることが出来ようか? 正義と愛情との間に関連はなく、寧ろ両者の都合は頻繁に対立する。愛することは正義とは無関係だ。何故なら、正義の貫徹に必要なのは愛情よりも寧ろ、論理的要請に忠実に振舞い続ける酷薄な鋼の意志であるから。愛情は鋼の意志を蕩けさせ、規範に従わない人間にさえ居場所を授けようと試みる困難な感情である。それは時々、世界に救い難い混乱を招き入れるだろう。多くの酸鼻を極める悲劇が、正義の不在によって齎されるだろう。だが、愛情は正義によって育まれるのではない。いや、愛情には、愛情に固有の正義が備わっていると言うべきだろうか。プラトンの正義が厳格な選別の涯に析出される「守護者の正義」であるならば、愛情における正義は、あらゆる存在を肯定する異様な併呑の裡に見出される。残酷な犯罪者にさえ、愛情は居場所を与える。それは確かに危険で、秩序を擾乱する措置となるかも知れない。

 だが、正義の仮面を被った愛情は不安定な代物だ。やはり愛情には、愛情に固有の両義的性質だけを期待すべきだろう。愛情は常に不安定で不合理な現実を肯定し、そこから逃避する理由を欲しない。プラトンの正義は、眼前の現実に対する憎悪に裏打ちされている。哲学は「知」を愛するが、芸術は「人間」を愛し「世界」を愛するだろう。ソクラテスは公務を拒んで私人の立場に留まり、尚且つ理想的な学園のような「聖域」を必要としなかった。それは彼が不可解な現実を愛し、それに直面していたことの紛れもない証左ではなかろうか。

 哲学は言葉の厳密で一義的な使用を重んじる。それは哲学が「選別と排除」の原理に従属していることの鮮明な反映である。哲学においては、語彙は限定され、削減される傾向を持つ。だが、例えば文学は言葉の限りない豊饒を志向する。同じような事態を言い表すのに多彩な表現を欲するのは、文学に宿っている芸術的本能の所産である。無数の花々を「花」という一語に向かって抽象するプラトン本質主義は、一つ一つの個物の固有性を描き出すことに全身全霊を捧げる芸術家の倫理の対極に位置している。

 個人的な結論としては、私は一旦プラトンの対話篇の繙読を中止する。代わりに、途絶していた三島由紀夫の短篇集の読解に復帰しようと思う。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

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花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

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