サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

典雅で精巧な「情念」の棋譜 三島由紀夫「女方」

 三島由紀夫の短篇小説「女方」(『花ざかりの森・憂国新潮文庫)に就いて書く。

 この自選短篇集に収録された数多の作品の中で、余人は知らず、少なくとも私の個人的感受性にとっては、緊密な構成と巧緻な描写を併せ持つ「女方」は、実に出色の出来栄えであった。歌舞伎という日本古来の伝統的芸能の特殊な世界を舞台の背景に選んで綴られる濃やかな情感の絵巻物は、犀利で辛辣な心理的描写と、精密でありながら簡潔な筆致に彩られつつ、三島らしい官能の魅惑を芳醇な果汁の如く随所に行き渡らせている。

 「色気」というものは、誰しもが日常的に用いるが、明確な定義を試みることの困難な観念の一つである。それは実体的に観察し得る明確で堅固な科学的対象であるとは言い難いし、その把握に関しては、個体による感覚的な差異が著しい。そもそも言語的な定義として「色気」の内実或いは正体を、厳密に示し得る人が誰かいるだろうか。

 だが、我々は確かに或る瞬間には他人の仕種に色気を覚え、目移りを禁じられる。余り露骨に見凝めていけない場面であっても、一瞬の間隙を狙って盗人のように幾度も窃視を試みる。そのとき、我々は確かに惹き付けられ、魅惑されている。それは容貌であったり仕種であったり肢体であったりするが、殊更にその魅力が「色気」という単語で指し示されている場合には、往々にしてそれは官能的な含意を伴っている。美しい自然の景観に魅了されて深い溜息と共に凝視を止められないとき、我々は決して自然の「色気」に誑かされているとは考えないし表現しないだろう。我々が色気を覚える相手は専ら人間に限られており、少なくとも人間以外の存在や事物から官能的感興を煽られている場合であっても、そうしたフェティッシュな対象自体を「色気がある」とは評しないだろう。「色気」という言葉は、人間の放出する性的な魅力を表現する簡素な修辞である。

 三島が「女方」の舞台に選んだ芝居の世界は無論、多様な「色気」の複雑な混淆が日常的に氾濫する世界である。役者たちは痛ましいほど多くの貪婪な視線の鋒鋩に刺し貫かれつつ、それでも猶、観衆の熱烈な関心を煽動することに自己の技倆の精髄を懸ける。色気を欠いた人間、他者を誘惑する力量を持たない人間が、芝居の世界で応分の敬意を寄せられることは有り得ない。単に容貌が優れていたり、逞しく引き締まった男性的肉体、或いは無数の優美な曲線で繊細に織り上げられた滑らかな女性的肉体の持ち主であったり、頭脳が明晰であったり社会的な威光に包まれていたりするだけでは、その者の魅力の普遍的な輝きは保証されない。「魅惑」という効果は実に水物で、同じ仕種、同じ微笑であっても、それが観衆の一人一人の内面に齎す影響は異なり、時間や場所に応じても千変万化の変貌を見せるものである。その複雑な動態的現象の渦中で如何に他人の心理や感情を魅惑するか、如何にして多様な他者の視界に映じる自己の姿を調整し制御するか、その渾身の技術的努力の裡に演劇の神髄が秘められている。そういう世界で「色気」が様々な含意と性質と段階を伴って乱れ飛ぶのは当然の帰結である。

 凄腕の棋士を思わせる冷徹で奔放な想像力の下に、心理の駒を目紛しい速度で次々に運び、相手の心理と競り合い、時に凭れ合う。そういう心理的描写の積み上げに際して三島の示す才筆の精緻な美しさは凡百の文学者を圧倒的に凌駕している。それがフランスにおける豊饒な心理小説の伝統に対する熱烈な耽溺から摂取された技術的志向であることは、若年期における三島のラディゲに対する異様な傾倒という事実によっても傍証されている。人間の複雑な心理を可知的な観念の連なりとして捉える心理主義的志向は今日、手放しの尊崇や信仰を享けている訳ではないが、読者にとっては、その巧緻で精密な心理の仮構は、充分に興味深く魅惑的な文学的効果を発揮しているように感じられる。少なくとも、凡庸で動物的な抒情に只管凭れかかった甘ったるい恋愛小説を読むくらいならば、恋愛の陽画も陰画も共に仮借無く剔抉する冷酷な心理家の外科手術の鮮やかさに酔い痴れる方が、遥かに人生の勉強に繋がるのではないかと思う。

 ところで、演劇の世界が観衆の眼前に提示する絢爛たる異界の物語は、凡庸な日常生活の齎す倦怠を忌み嫌い、絶えず「超越」を志向する三島的な価値観にとっては特権的な価値を有している。彼が老醜を忌み嫌い、夭折の神話を好んで実際に自死を選んだという年譜的事実は広く知られているが、その不可能な願望を仮想的に具現化するに当たって、演劇という世界は最も好適の芸術的領野であったと考えられる。

 増山は大役を演じて楽屋にかえったときの佐野川屋が好きであった。今演じてきた大役の感情のほてりが、まだ万菊の体一杯に残っている。それは夕映えのようでもあり、残月のようでもある。古典劇の壮大な感情、われわれの日常生活とは何ら相渉らぬ感情、御位争いの世界とか、七小町の世界とか、奥州攻の世界とか、前太平記の世界とか、東山の世界とか、甲陽軍記の世界とか、一応は歴史に則っているように見えながら、その実どこの時代とも知れぬ、錦絵風に彩られ誇張され定型化されたグロテスクな悲劇的世界の感情、……人並外れた悲嘆、超人的な情熱、身を灼きつくす恋慕、怖ろしい歓喜、およそ人間に耐えられぬような悲劇的状況に追いつめられた者の短かい叫び、……そういうものが、つい今しがたまで万菊の身に宿っていたのだ。どうやって万菊の細身の体がそれに耐えてきたかふしぎなほどだ。どうしてこの繊細な器から、それらが滾れてしまわなかったのかふしぎである。

 ともあれ万菊は、たった今、そうした壮大な感情の中に生きたのだ。舞台の感情はいかなる観客の感情をも凌駕しているから、それでこそ、万菊の舞台姿は輝やきを発した。舞台の全部の人物がそうだといえるかもしれない。しかし現代の役者のなかで、彼ほどそういう日常から離れた舞台上の感情を、真率に生きていると見える人はなかった。(「女方」『花ざかりの森・憂国新潮文庫  p.181)

 三島が演劇という芸術的領野に対して要求し期待するものは「日常生活の超越」であり、従って卑近な現実の自然主義的模写など論外であったに違いない。彼は絶えず劇的な絶頂への到達に憧れ、最も美しい状態で死ぬことを、しかも単なる自堕落な自裁ではなく、例えば「奔馬」の飯沼勲のように、壮麗な大義の下に自害することを望んだ。そうやって永遠と化し、時間と歴史を超越し、いわば自らを普遍的な顕彰の石碑の如く改変することを欲した。このような願望は絶えず「幻滅」の経験と裏腹である。万菊の川崎に対する仄かな恋心の簡潔な素描は、増山の心に「黒い大きな濡れた洋傘こうもり」のような幻滅の感覚を賦与している。三島の実存的苦闘は常にこれらの両極を行き交い、絶えず「幻想」と「幻滅」との目紛しく緊張した思想的往還を演じることに夥しい情熱と労力を費やした。その振幅の巨大な面積は、三島の文学的遺産の巨大な体積と相関している。

 万菊の川崎に対する恋心もまた、増山が味わったような類の「幻滅」を再び辿り直す懸念を秘めている。伝統的な古典劇の重鎮として生きる万菊の恋愛に関する規範は、通俗的な現代性を欠いているからである。

 増山には直感でわかるのだが、この女方の恋の鋳型とては、舞台しかないのである。舞台はひねもす彼のかたわらに在り、そこではいつも、恋が叫び、嘆き、血を流している。彼の耳にはいつもその恋慕の極致をうたう音楽がきこえ、彼の繊巧な身のこなしは、たえず舞台の上で恋のために使われている。頭から爪先まで恋ならぬものはないのだ。その白い足袋の爪先も、袖口にほのめくあでやかな襦袢の色も、その長い白鳥のような項も、みんな恋のために奉仕している。

 増山は万菊が自分の恋を育てるために、舞台の上のあの多くの壮大な感情から、進んで暗示をうけるだろうと疑わない。世間普通の役者なら、日常生活の情感を糧にして、舞台を豊かにしてゆくだろうが、万菊はそうではない。万菊が恋をする! その途端に、雪姫やお三輪や雛衣の恋が、彼の身にふりかかってくるのである。

 それを思うと、さすがに増山も只ならぬ思いがした。増山が高等学校の時分からひたすら憧れてきたあの悲劇的感情、舞台の万菊が官能を氷の炎にとじこめ、いつも身一つで成就していたあの壮大な感情、……それを今万菊はのあたり、彼の日常生活のうちに育んでいるのである。そこまではいい、しかし、その対象は、才能こそ幾分あるかもしれないが、こと歌舞伎に関しては目に一丁字いっていじもない、若い平凡な風采の演出家にすぎない。万菊が愛するに足る彼の資格は、ただこの国の異邦人だというだけで、それもやがて立去って二度来ないだろう一人の若い旅人にすぎない。(「女方」『花ざかりの森・憂国新潮文庫  p198)

 万菊が参照する「恋」の雛型は、我々の属する日常的現実の枠組みから余りに遠く隔たっている。それを処世の規矩に選んで従いながら、歌舞伎という古典的世界の習俗に無智な若い男との恋を育もうと試みるのは、無謀と言えば確かに無謀である。だが、恐らくそれは三島にとって決して他人事とは思われない感情的な実験であったに違いない。演劇的な世界の論理を凡庸な日常生活の構図の裡に導き入れることの危険と不可能を存分に熟知しながらも、三島自身、そのような無謀な欲望に魅せられることの不可避性を痛切に実感していたのではないかと思われる。その意味で、この「女方」という作品は、三島的倫理と社会的現実との微妙な摩擦の構造を適切に照明していると言えるだろう。川崎に恋すればするほどに、万菊の味わう挫折と幻滅の振幅は加速度的に膨れ上がる。その哀切な痛みに想像的に寄り添うように、三島の筆致は極めて精密で巧緻な棋譜を描いているのだ。

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)