サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(記憶する愛情)

*例えばピアニストは素人と比べて、眼前に並ぶ黒白の鍵盤の組み合わせが、どれだけ多様な音律と響きを作り出せるかということに就いて、豊富な実践的知識を泉のように蓄えている。彼らは素人と比べて遥かに多くの深甚な理解を、ピアノという楽器に関して、その構造と可能性に就いて抱え込み、それを日夜更新し拡張し続けている。それを私は「愛」と呼びたい。

 マザー・テレサが「愛の反対は無関心だ」と述べたことは広く知られている。愛情の対義語に憎悪を持ち出そうとする人々の通俗的な理解の枠組みを覆すように発せられた彼女の言葉は、愛するという営為が「理解への欲望」を伴っていることに世間の注意を喚起しようと試みたのだろう。

 一方で我々は、作家のミラン・クンデラが示した警告にも耳を傾けておかねばならないだろう。

 人間は善悪が明確に区別できる世界を願う。というのも、理解する前に判断したいという御しがたい生得の欲望が心にあるからだ。この欲望の上に諸々の宗教やイデオロギーが基づいている。これらは相対的で両義的な小説の言語を明白で断定的な言説の形に言い表せる場合にしか小説と和解できず、つねに誰かが正しいことを要求する。アンナ・カレーニナが偏狭な暴君の犠牲者なのか、カレーニンが不道徳な女性の犠牲者なのか、そのどちらかでなければならないのだ。あるいは、無実なKが不正な法廷によって粉砕されるのか、裁判所の背後に神の正義が隠れているのだからKは有罪なのか、そのどちらかでなければならないのだ。

 この「どちらかでなければならない」ということの内に、人間的事象の本質的な相対性に耐えることができない無能性、〈最高審判者〉の不在を直視できない無能性が内包されている。このような無能性のために、小説の知恵(不確実性の知恵)を受け容れ、理解することが困難になるのである。(『小説の技法』岩波文庫 pp.16-17)

 人間は理解し難い事柄に就いて持続的な熟考を営むことなく、明快な結論を弾き出そうとする。誰かの受け売りや、自分の漠然たる感覚的な判断を、普遍的な心理のように、論理的な必然性の帰結のように語り、古くから伝わる因習的な解釈を錦の御旗の如く振り翳して躊躇いもしない。こうした態度は、如何に熱心な議論に彩られていたとしても、所詮は「無関心」の産物である。彼らの目的は不可解で両義的な構造を、つまり如何なる明快な結論も峻拒するような事物の難解さを、単純で保守的な定義に性急な仕方で還元する。既定のカテゴリーの中に総てを押し込めて、理解し難いものへの畏怖の念を扼殺し、麻痺させようと企てているのだ。彼らのラディカリズムは、理解することへの欲望であるというよりも、理解し難いものへの憎悪に基づいていると看做すべきである。彼らは尤もらしい論理を持ち出すが、決してそれを相手に対する理解の深化の為には用いない。それは寧ろ、相手を自分の物差しや枠組みの中に幽閉しようとする邪悪な企てなのである。

 だが、本来の意味で相手を理解する為には、寛容な精神が不可欠である。理解し難いものを排斥しようとする衝迫の裡に宿っているのは狭隘な恐怖心であり、その感情は決して寛容という美徳を養わない。寛容であるということは、結論を急がないということと同義であり、性急な結論は行き届いた懇切な理解を妨げる最も不適切な悪習である。

 相手が人間であろうとなかろうと、この世界の事物を理解しようと試みる欲望は、人間の善性の根幹を成す。本当に相手の総てを理解しようと望むならば、我々は永遠に判決文を書き換え続けることになるだろう。その無限の忍耐に堪え難いものを感じて、人間は大雑把な結論に縋り、探究の精神を安易に廃絶してしまう。言い換えれば、理解とは無智から生じる崇高な欲望なのである。無智を否定した瞬間に、つまり絶対的な正解に、普遍的な真理に安住することを選んだ瞬間に、理解へ至る道は途絶を強いられる。「分からない」という呟きは人間の健全な善性を養育する根本的なテーゼである。分からないからこそ、我々はもっと相手に近付いて詳しく細部を確かめ、その本質や構造を吟味しようと試みる。愛することは接近することであり、親密な距離を築くことである。それは相手自身が自覚していない部分的要素にさえも、理解の眼差しを注ぎ、本人が想像もしない角度から、相手の内なる真実を言い当てようとする。言い換えれば、事物に関する理解力を育てることは、愛する力を高める最も基礎的で重要な教練なのである。人を誠実に理解しようと試みる者は、結果として相手の愛を享けることになる。しかし理解を怠る者は、同じ種類の懲罰によって報われるだろう。表層的な判断の連なりに包囲され、身動きの取れない窮境に追い込まれるという孤独な懲罰。貧困や病気よりも「孤独」の方が遥かに深刻な問題だと、マザー・テレサは幾度も強調した。だからこそ彼女は、人から愛されることのない人々を積極的に愛する役目を、崇高な使命のように自らの裡に引き受けたのである。

 理解すること、それは不断に変貌を続ける事物の多様な側面の総てを、その内在的な矛盾も含めて、在るがままに受け容れることを、相互に分かち合うことを意味している。それは分析的な解剖であるというよりも、驚嘆すべき強靭な凝視であると称すべき振舞いだ。一義的に確定された結論など、理解の現場においては重要な意義を持ち得ない。その意味では、ソクラテス的な探究、アポリアを凝視する探究の作法は、誠実な愛情を伴っていると言えるだろう。粗雑な結論を注意深く拒み、定義から逸脱していく不透明な部分に着目し、それらの総てを記憶の裡に刻み込むこと。極論を持ち出すならば、愛することは総てをそのままに記憶することではないだろうか。賢しらな分析よりも、只管に過ぎ去った日々の記憶を保ち続けること、例えば親が子供たちの幼い頃の姿を死ぬまで忘れないように、愛する者の多様な側面を記憶の領野に留め続けること、記憶という労役に忍耐を以て励むこと、それが愛情の本質ではないか。愛することは記憶することに等しい。そのことを証明するかのように、性急な結論を好む人々は、理解し難い対象を迅速に忘却の墓地へ埋葬したがるものである。

小説の技法 (岩波文庫)

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ソクラテスの弁明 (光文社古典新訳文庫)

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