サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「共感」から「理解」へ)

*何かを「理解する」ということが、具体的に如何なる状況を指すのか、明晰に定義するのは容易ではない。だが、厳密な定義を下さずとも、漠然たる認識の輪郭の間を軽業師の綱渡りのように突き進んで、とりあえず思考を積み重ねていくことは出来る。厳格な定義への固執は時に、思考の柔軟で可塑的な躍動を死滅させる危険を孕んでいる。

 最近、職場で立て続けに、人間関係の失調と軋轢を目の当たりにした。一つは今年の五月に私の管理する店舗へ配属されたばかりの直属の部下社員と、既存のスタッフとの間に生じた凡庸な軋轢で、環境の変化に巧く適応出来ず、結果として自信を喪失し、踏み込んだ本質的なコミュニケーションを自ら拒絶してしまう若い女性社員の臆病な態度を、周りの人間が遠巻きに眺めて冷ややかな感想を増殖させているという風な状況であった。互いに相手が何を考えているのか掴めず、理解が深まっていかない為に生じた孤立であり、その孤立の齎す苦しみを、彼女は誰とも分かち合えずにどんどん深刻化させつつあった。

 苦しみを分かち合えないという状況の絶望的な閉塞は、人間の心から前向きな活力を奪い取ってしまう。私は彼女を呼び出して面談を行なった。新しい環境に巧く馴染めているかと訊ねると、直ぐに彼女は泣き出した。私の想像を超えて、彼女の苦悩は重症化していたのだ。

 恐らく様々な要因が重なって、彼女は自分の考えや想いが周りから理解されないと決めつけてしまっていた。それゆえに自衛を目的として、コミュニケーションそのものを拒絶する。その選択が一層劇しく、相互の不信を高ぶらせていく。この悪循環は、理解し合いたいという人間の素朴な欲望を抑圧し、蹂躙するものであるから、必ず当事者の精神に重篤な負荷を強いる。仮に相手の意見や信条に賛同が出来なくとも、理解することは可能である筈なのに、我々は極めて安直に「理解」と「同意」という二つの概念を一括して、粗雑な手つきで混ぜ合わせてしまう。「理解」という営為は「事実を事実として把握し、認定すること」を目指すものであって、必ずしも無条件の賛同や肯定を含意する訳ではない。全く相容れない人間との間にも、厳密な意味での「理解」は成立し得る。肯定や否定は副次的で瑣末な問題に過ぎない。少なくとも、相互的理解に向けた努力の重要性に比べれば、合意の決裂は枝葉の重みしか有さない。

 「理解」よりも「賛同」を重んじる態度を、日本語では「迎合」と呼び「阿諛追従」と呼ぶ。作家のミラン・クンデラが自著において警鐘を鳴らした「理解する前に判断したい」という欲望の危険性は、もっと明瞭に認知されるべき事柄である。「理解」は「価値の判定」とは無関係であり、事実の構造をそのままの姿で究明することが「理解」における最大の本務である。「理解」と「迎合」を混同する人々は、共感の紐帯で結ばれた人々との間にしか「想い」を疎通させることが出来ない。異質な他者との意思の疎通は、彼らにとって不快で困難な作業として忌避される。彼らが求めるのは「意見の完全なる合致」である。しかし、相互に異質な要素を備えた者同士が、そのような奇蹟の到来ばかりに固執するのは不健全な話である。

 抑圧されてきた辛い想いを話しながら涙を流し続ける彼女に、どうやって「迎合」や「共感」以外の「理解」の形式に踏み出す勇気を授ければいいのか、面談しながら私はずっと策を練っていた。思い浮かんだ荒療治の方法は、私の発する励ましの言葉よりも遥かに優れた即効性を宿しているように感じられた。その泣き顔を、一番彼女に強い敵意を懐いているように見える古株のスタッフに見てもらいなさい、貴方の抱えている苦しみを、その人に理解してもらいなさい、と私は提案した。最初は当惑していた彼女も、やがて覚悟を固めたように静かに承諾した。

 現れた古参のスタッフは、社員の泣き顔を見た瞬間に状況の総てを察した様子だった。彼女の頭に優しく掌を伸ばして、それでも徒らに甘やかすのではなく、きちんと言うべきことは伝えようという構えだった。私は簡潔に状況を説明し、若い彼女の苦しみがきっと誰にも伝わっていないと思ったから、こうして貴方を呼んで目の当たりにしてもらいたいと考えたのだと言った。古参のスタッフは、何故貴方は積極的に周りに関わろうとしてくれないのかと、涙を抑えた社員に訊ねた。何故貴方は、誰にも何にも関わりのないような顔をして、売り場に立っているのか。そんな風に二人は暫く言葉を交わした。涙を流していても、明らかに若い社員の顔つきは明るくなっていた。雨上がりの陽射しのように。それは二人が何かの共感で結び付き、総ての齟齬が解消されたからではない。分かり合えないという現実さえ、人は分かり合うことが出来るのだ、という現実が、彼女に一抹の勇気を授けたのである。私と貴方の考え方や感性は違う。だが、それは不和の原因だろうか? 価値観の不一致を理由に多くの夫婦が離婚を選択する。それは価値観の不一致が直接的な原因であるというよりも、価値観の不一致に堪えられず、それを相互的な「理解」の努力によって補っていこうとする積極的な意思の欠如によって齎される不幸な事態なのではないかと思う。考え方の不一致そのものは、誰にとっても日常的な現象で、睦まじい夫婦や恋人たち、親子や友人の間においても、本当は最初から、思想や信条の全面的な合致など存在していない筈なのだ。重要なのは、共感に固執することではなく、異質な考え方を理解したいと願う根源的な感情を重んじることである。共感は同質的な環境において育まれる。だから、それは狭く閉じた領域においてのみ成立する。けれども人間の尊厳は、共感し難い異質な他者に向かって「理解」を注ぎたいと願う心情の裡に存するのだ。「相手を理解したい」という感情は、性的含意の有無に関わらず、愛情という心理の最も重要で基礎的な本質である。極端に言えば、共感は言葉を必要としない。親子の間の共感は、時空の濃密な同質性という文脈に支えられて、余計な媒介を要請する頻度が乏しいのである。寧ろ時には言葉が、濃密な癒着の時間を妨げるだろう。

 けれども、本当に大事なのは、文脈を共有しない相手を「理解したい」と願う感情の方ではないだろうか。夫婦であっても親子であっても、文脈の共有と共感に依存した関係性の営みは、知らぬ間に深刻な断層を形成する危険を孕んでいる。「共感」の喜びは、一足飛びに親密な「理解」の状態へ我々の心を連れ去ってくれるから、誰もが手早く「共感」に辿り着けることを切望する。だが、若い社員を見ていて感じるのは、彼らが文脈を共有しない相手とのコミュニケーションに慣れていないという素朴な事実だ。相手の立場に応じてコミュニケーションの方法を随時切り替えていく訓練が、多くの若い社員には不足している。そうした現象は、世代的な同質性の裡に閉じ込められることの多い日本の公教育の制度的瑕疵ではないかとも考えられる。「家族」と「友人」との共感的紐帯に守られて生きることに慣れ親しんだ彼らは、それ以外の異質な関係性に対する適応の能力を余り錬磨していない。錬磨せずとも生きていける環境が整っているからだろう。

 共感を基礎に据えた人間関係の作法は、共感の成立し難い異質な文脈に属する他者との間に理解を深める機能を欠いている。だが、使い古された俚諺に「親しき仲にも礼儀あり」という文句があるように、最も親密な間柄でさえ、互いに赤の他人であることは根源的な事実なのだ。そうだとしたら、共感的紐帯は「理解に向けた努力」の発達を消極的に妨げる要素であると言えるかも知れない。「共感」から「理解」への移行は、幼児から成人に向かう人間的成長の過程と相関している。親子の関係も、幼児期と思春期とでは異質なコミュニケーションの様態を形成するものだ。親子における相互的な「自立」は、共感から理解へ、つまり他者を「自己の延長」として捉える段階から「異質な外部」として定義する段階への漸進的な移行を通じて齎される。

 「共感」を求めることが「甘え」であり「依存」であるならば、「理解」を注ごうと念じることは「愛情」である。「共感」は「自他の融合」に対する欲望だが、「理解」は「自他の異質性」という原則を常に尊重する。人間の社会的成熟は明らかに「依存」から「愛情」への重心の遷移を通じて実現される。その為には、人間と世界に関する不断の省察及び勉強が欠かせない。