サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「明晰」と「迂回」)

*五月の末から、プラトンの対話篇の繙読を一時休止して、再び三島由紀夫の短篇を渉猟する旅路に赴いていたのだが、俄かに気が変わった。

 先刻夕食を終えて、居間の壁際に置いてある新しい書棚に並べておいた、ドイツの哲学者カントの『啓蒙とは何か』(岩波文庫)に深い考えも持たずに手を伸ばし、冒頭の一頁を通読して、その古めかしく晦渋な言い回しの訳文に、文学とは異質な「明晰さ」を感じたことが、此度の目紛しい心変わりの直接的な契機である。

 啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである、ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、彼自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得ない状態である。ところでかかる未成年状態にとどまっているのは彼自身に責めがある、というのは、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。それだから「敢えて賢こかれ!(Sapere aude)」、「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」——これがすなわち啓蒙の標語である。(『啓蒙とは何か』岩波文庫 p.7)

 まるで何事もないような涼しい表情で、これだけ重要な「人生の心得」を簡潔に綴ってみせるカントの澄明な理智に、私は清々しい「明晰」の美徳を感じたのだ。無論、ここに挙げた文章を読んで、如何にも哲学者らしい晦渋な筆致だと忌々しい気分に陥る方もあるかも知れない。けれども、この文章は所謂「文学的晦渋」とは異質である。文意の厳密を期す為に冗長な表現を用いるのは、哲学者の一般的特徴である。しかし、哲学者が晦渋な表現を用いるのは、飽く迄も明晰な世界観を獲得する為であることを失念してはならない。

 一方、文学の世界における多様な表現は、哲学的な「明晰」への志向性とは根本的に異質な原理によって駆動されている。一般に小説の文章は、哲学書の文章よりも明快で、理解が容易であると考えられているが、こうした素朴な通念は疑わしいものであると知るべきだろう。小説においては、一つ一つの言葉は、明晰な一義性を志向していない。寧ろ、それは隠喩的な「意味」の乱反射の、集積された形態なのである。けれども、一つ一つの表現だけを抽出すれば、語釈の次元で、小説を構成する文章が特別に難解であることは滅多にない。小説は特別な言葉ではなく、我々の日常において用いられている普通の言葉によって形成されている。哲学書のように、難解で人工的な「造語」を発明することは稀有な事例である。それでも、小説における言葉は、我々の日常における言葉と、その外貌においては区別し難い類似性を備えながら、複雑な反射と屈折を秘めている。小説は、まるで独立した比喩のように、重層的な象徴のように、夢想的な啓示のように言葉を用いる。平明な単語でさえ、小説の内部に置かれた途端に、俄かに不可解な側面を露わに示し始める。小説を読んで、尤もらしい論理的解釈を施すことは不可能ではない。数多の批評家たちが、そうした評釈に長い年月を費やしてきたのだ。けれども、小説は要約を拒み、一義的な判定を、最終的な審判を執念深く忌避する。

 小説を通して現実を眺めようとするのは、如何にも無粋な振舞いで、本当は精緻に組み立てられた異界の実存を追体験するだけで充分なのだ。その後で紡ぎ出される無数の解釈の言葉は、直接的現実に関する解釈の言葉と、位相においては同質である。唯でさえ複雑な現実の渦中に生きている憐れな境遇なのだから、わざわざ「別様の現実」に耽溺して、虚構に関する論理的解釈を捏造するという煩瑣な作業に没頭する必要はない、という考えが、再び私の胸底で邪悪な鎌首を擡げた次第である。

 要するに私は、プラトンの長大な対話篇『国家』(岩波文庫)の繙読に復帰する決意を固めたのである。余人にとっては、勝手にしやがれという話だろう。無論、勝手にするのだが、その経緯を記録として遺した上で、一応は衆目にも曝しておきたいのである。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)