サラダ坊主日記

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純潔なる戦時下の天使 三島由紀夫「翼」

 三島由紀夫の短篇小説「翼」(『真夏の死』新潮文庫)に就いて書く。

 この小説は透き通るような、抒情的な美しさに満ちている。通俗的な感傷と言えば確かにそうかも知れないが、この美しさには三島的な主題の片鱗が、蜉蝣の翅のように薄く繊弱に編み込まれている。新海誠氏のアニメーション映画に相応しい題材ではないかと、個人的には感じた。

 死の陰翳と哀切な恋心を結び付けることで、名状し難い抒情を醸し出す手法は巷間に有り触れている。病気であれ、事故であれ、仏教において説かれる所謂「愛別離苦」の凄絶な痛みは、それだけ普遍的な衝撃力を備えているのだろう。通俗的な題材であるということは、言い換えれば、万人にとって馴染み深い本質的な重要性を宿しているということでもある。問題は、そうした普遍的題材に如何なる特異性を賦与するかという創意工夫の巧拙に存するだろう。

 小説が単なる叙述的散文から区別される為には、そこに何らかの「異物感」が介在していることが必要である。我々の日常的な認識の枠組みを逸脱する何らかの特異なエラーが混入することによって、小説は単なる叙述的散文から離陸し、我々の視界を更新する。我々の持ち前の認識論的布置から聊かも逸脱することのない保守的な散文は、我々の視界を更新せず、寧ろその守旧的な性質を強化するばかりである。

 この「翼」という短い作品において、我々の日常的な認識論を罅割れさせる要素は明らかに、一組の若い男女の背中に幻視される「翼」の存在である。若しも「翼」の幻想が介在しなければ、この小説はもっと単純で凡庸な作品に堕落してしまうだろう。だが、この「翼」が一体何を意味しているのか、果たして彼らの背中には本当に翼が潜んでいたのか、こうした設問に適切な回答を与えることは必ずしも容易ではない。

 葉子は彼が沢山の翼を作っているところを想像した。彼は工員たちに製品見本を示す必要に迫られるだろう。そうしたら、自分の肩の巨きな真白なきらきら光る翼を示せばよい。その次には性能の実験を迫られるだろう。そうしたら、彼はほんのすこし飛んでみせるだろう。空中にとどまってみせるだろう。設計図が作られるだろう。洋服の寸法をとるように、彼の翼の寸法がとられるだろう。しかしこの天然の翼のように完全な翼は誰にも作れない。彼は嫉視に会うだろう。もう一度飛んでみるように迫られるだろう。飛ぶ。すると銃口が彼の翼を狙う。翼は血に濡れそぼち、彼の体はまっすぐに地上に落ち、射られた鳥のように、しばらく狂おしく羽搏はばたいて地上をころげまわるだろう。彼は死ぬだろう。……死んだ小鳥の、動かない生まじめな目つきをしたまま。(「翼」『真夏の死』新潮文庫  p.110)

 葉子の陰惨な空想において典型的に象徴されているように、この幻想的な「翼」の観念には、不吉で悲劇的な含意が織り込まれている。杉男の「翼」は、彼の不幸な破滅を惹起する要因として機能するであろうと、葉子によって想定されている。「翼」が周囲の嫉視を購うだろうという想像は、この「翼」が誰の背中にも等しく生える訳ではない、寧ろ限られた人間の肩胛骨にしか宿らない一種の「聖痕」であることを暗黙裡に示唆しているのである。

 幻視される「翼」は、彼らの存在が周囲の世界から乖離していることの象徴である。だが、彼らは何故、周囲から乖離しているのだろうか? 彼らの背中には何故、普通の人間には決して備わることのない「翼」が生えているのだろうか?

 二人はいろんな点がよく似ていたので、本当の兄妹とまちがえられることがたびたびあった。相似というものは一種甘美なものだ。ただ似ているというだけで、その相似たもののあいだには、無言の諒解や、口に出さなくても通う思いや、静かな信頼が存在しているように思われる。なかんずく似ているのは澄んだ目である。その目は、濁った不純な水をかならず濾過して、清浄な飲料水に変えてしまう濾過機のように、そこに影を落して来る現世の汚濁を浄化してやまない目であった。そればかりではない。この濾過機は外側へむかっても、たえず浄化された水を供給しているように思われた。この二人の目から流れ出た水が世界を霑おす日には、この世の汚濁はことごとく潔められているにちがいない。(「翼」『真夏の死』新潮文庫 p.101)

 二人の純潔な性格を強調するこれらの記述は明らかに、彼らを「天使」に擬えようとする作者の意思の反映であるように感じられる。彼らの涙は「現世の汚濁を浄化してやまない」。彼らは単なる人間ではなく、地上の摂理を超越する数奇な使命を授かった「天使」なのである。「杉男も葉子も、お互いの背中が感じている温か味を、何故かしら人間の肉の温か味のようには感じなかった」(p.102)という記述もまた、彼らの存在を「天使」と看做す作者の意識的な視線の介入を暗示しているように思われる。或いは、葉子が英語の授業で教わった、イギリスの詩人ウイリアム・ブレイクの「天使」に関する挿話も同様である。

 だが、そもそも「天使」とは何か? 彼らは凡百の人間と如何なる点で異なっているのか? その最大の特徴は「現世の汚濁」を浄化する「澄んだ目」と、地上の世界から遠ざかって彼岸の領域へ飛翔していく「翼」の権能だろう。彼らは「現世の汚濁」を超越し、総てを「彼岸」から眺めているのである。言い換えれば、彼らは「死者の精霊たち」(p.108)の同類なのである。

 二人の見る風景には、たしかに死の耀やかしさが籠っていた。河原の石のひとつひとつの影にもそれがあった。こうしてうら若い従兄妹同士は、翼を寄せておたがいの鼓動に耳を澄ました。それは相手の胸からひびいてくるものにしては、あまりに同一の調べを持ち、あまりに符節を合していた。まるで二人のあいだにこの地上でただ一つの生き物が脈搏っているように思われた。(「翼」『真夏の死』新潮文庫 p.108)

 死者の側から眺めるとき、忌まわしい「現世の汚濁」は額縁に収められた絵画のように無害な美しさを放つ。それは「現世の汚濁」に塗れて生きるしかない地上の人間たちには望み得ない境涯である。だが、杉男と葉子は、同じ天使でありながら、同一の宿命には見舞われなかった。葉子は空襲で死に、地上から彼岸へ帰還したが、杉男は生き残って戦後の俗世に、つまり「現世の汚濁」の裡に暮らし始める。誤って地上に産み落とされた不幸な天使の背に、残酷な宿命は「現世の汚濁」という重荷を括り付けたのである。「翼は地上を歩くのには適していない」(p.117)という簡潔な一文は、夭折の恩寵に恵まれず、戦後の社会に向かって出航を命じられた作家自身の苦衷を端的に暗示している。

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)