サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「生成」と「実在」の協奏曲 三島由紀夫「金閣寺」

 古代ギリシアの哲学者プラトンの書き遺した夥しい対話篇の数々を読んでから、改めて三島由紀夫の小説を断片的に読み返すと、様々な箇所に、プラトニズム的な認識の形態が挿入され、象嵌されていることに気付く。例えば「美しい星」に登場する円盤は、対話篇「国家」において「太陽の比喩」を通じて語られる「善のイデア」のことではないか、或いは「金閣寺」における次のような記述は、プラトンの論じる「生成」と「実在」との二元論的区別に照応しているのではないか、といった考想が徒然に脳裡を掠めるのである。

 おしなべてしょうあるものは、金閣のように厳密な一回性を持っていなかった。人間は自然のもろもろの属性の一部を受けもち、かけがえのきく方法でそれを伝播し、繁殖するにすぎなかった。殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算である。私はそう考えた。そのようにして金閣と人間存在とはますます明確な対比を示し、一方では人間の滅びやすい姿から、却って永生の幻がうかび、金閣の不壊の美しさから、却って滅びの可能性が漂ってきた。人間のようにモータルなものは根絶することができないのだ。そして金閣のように不滅なものは消滅させることができるのだ。どうして人はそこに気がつかぬのだろう。私の独創性は疑うべくもなかった。明治三十年代に国宝に指定された金閣を私が焼けば、それは純粋な破壊、とりかえしのつかない破滅であり、人間の作った美の総量の目方を確実に減らすことになるのである。(三島由紀夫金閣寺新潮文庫 p.246)

 この記述において、三島はプラトン的な「生成」と「実在」との区別の構造を反転させているように思われる。「金閣」が「実在界」に属し、「人間」が「生成界」に属するものであることは明らかである。プラトンにおける「実在」とは、時間的な枠組みを超越した永久的な普遍性を備えた事物のことであり、他方「生成」とは絶えず不安定な流動と変異を重ねる有限性の裡に内属する事物のことを指す。言い換えれば、プラトンにとって「実在」とは「不壊」の同義語であり、「生成」とは「滅亡」の同義語なのである。

 けれども「金閣寺」における三島の精密で煩瑣な議論は、そのような等式の性質を書き換えている。「実在」は、その本性において「厳密な一回性」を有している。何故なら、それは如何なる代用品とも無縁であるからだ。しかし「生成」は当初から恒久的な性質を奪われており、何度も生み出される代わりに何度も滅亡する。「生成」における離散的な一回性は、「実在」における厳密な一回性とは根本的に異質である。

 或いは、このように考えるべきだろうか。「人間」という類的な名辞は、夥しい個体的存在(無論、それは「生成界」に属する)の集合的な同一性であり、従って「人間」という理念的実在そのものは、極めて長大な時間を通じて持続する。しかし「金閣」という名辞は、そもそも特定の個体的な存在に授けられた限定的な名辞なのであり、それに属する複数の個体を抱えている訳ではない。それは理念的実在でありながら、同時に生成的個物としての一回性を両義的な仕方で孕んでいるのである。

 このように考えを進めていくと、三島が考えていた問題は、プラトン的な「実在/生成」の二元論的構図とは必ずしも重なり合わないことが看取出来る。言い換えれば、彼は「一回的な生成/集合的な生成」との対比において世界を眺めながら思索を重ねていたのではないか。夥しい個物を包摂する生成的存在と、厳密な一回性によって覆われた生成的存在との区別が、彼にとっては重要な指標となる。換言すれば、彼にとって最も強烈な魅惑を放つ主題とは「厳密な一回性」における特権的な栄光ではないだろうか。

 彼は要するに特権的な存在に憧れたのだろうか? いや、話はそれほど単純ではないだろう。何故なら、彼はその特権的な存在を滅ぼす為の手段を「金閣寺」に登場する若い僧侶に語らせ、思案させているのだから。こういう問題を考えるに当たっては、三島にとって「滅亡」という主題が備えていた特別な就いて事前の省察を深めておく必要がある。三島にとって「滅亡」は時間の超越を意味する。それは単に地上から永遠に消え去ることを意味するのではない。最も美しい状態で死ぬこと、生の特権的な絶頂において、そのまま壮麗な剝製の鳳凰のように、時間の洗礼を享けぬ特別な次元へ移行すること、つまり「夭折」の審美的価値が、三島の年来の宿願であり、切なる希求と憧憬の対象であった。

 それは「生成」を「実在」に作り変えようとするプラトニックな野心に似ていると言えないだろうか。「金閣寺」の前半においては、語り手である若い僧侶が金閣に対して懐く異様な執着と、両者の合一の不可能性が綿々と綴られる。そして一時的に両者の紐帯が認められたのは、戦時下の京都で「空襲」の懸念が「私」の意識に前景化した時期に限定されている。

 晩夏のしんとした日光が、究竟頂くきょうちょうの屋根に金箔を貼り、直下にふりそそぐ光りは、金閣の内部を夜のような闇で充たした。今まではこの建築の、不朽の時間が私を圧し、私を隔てていたのに、やがて焼夷弾の火に焼かれるその運命は、私たちの運命にすり寄って来た。金閣はあるいは私たちより先に滅びるかもしれないのだ。すると金閣は私たちと同じ生を生きているように思われた。(『金閣寺新潮文庫 pp.57-58)

 「現実の金閣」よりも「心象の金閣」を美しく感じる「私」の屈折した感性、つまり「現実の金閣」を「心象の金閣」の不完全な模造品のように囚える思考の倒錯は、超越的実在としての金閣が、空襲によって焼け落ちるかも知れないという認識に包まれた途端に「現実の金閣」の「悲劇的な美しさ」に開眼する。それは「実在」を「生成」の領域へ下向させることに等しい。「私」と「金閣」との恒常的疎隔及び束の間の幻想的な親密は、言い換えれば「生成」と「実在」との関係性の文学的転写なのである。

 けれども、本質的な意味において、この「金閣寺」という作品は決して超越的「実在」に対する憧憬に貫かれたものではないと私は考える。寺僧が金閣寺に放火したのは、三島が「夭折」に憧れるような意味で、特権的な美しさを「剝製」にしようと思い詰めたからではない。明らかに寺僧は「金閣」に対する憎悪に駆られて、己の実存を防衛する為の方途として、許されざる大罪に踏み込んだのである。それは「実在」という理念が孕んでいる侮蔑的な害毒の介入に苛まれた日々の帰結である。言い換えれば、この「金閣寺」という作品は「プラトニズムとの対決」という構図を密かに隠し持っているように見えるのである。

 私に或る種の眩暈がなかったと云っては嘘になろう。私は見ていた。詳さに見た。しかし私は証人となるに止まった。あの山門の楼上から、遠い神秘な白い一点に見えたものは、このような一定の質量を持った肉ではなかった。あの印象があまりに永く醗酵したために、目前の乳房は、肉そのものであり、一個の物質にしかすぎなくなった。しかもそれは何事かを愬えかけ、誘いかける肉ではなかった。存在の味気ない証拠であり、生の全体から切り離されて、ただそこに露呈されてあるものであった。

 まだ私は嘘をつこうとしている。そうだ。眩暈に見舞われたことはたしかだった。だが私の目はあまりにも詳さに見、乳房が女の乳房であることを通りすぎて、次第に無意味な断片に変貌するまでの、逐一を見てしまった。

 ……ふしぎはそれからである。何故ならこうしたいたましい経過の果てに、ようやくそれが私の目に美しく見えだしたのである。美の不毛の不感の性質がそれに賦与されて、乳房は私の目の前にありながら、徐々にそれ自体の原理の裡にとじこもった。薔薇が薔薇の原理にとじこもるように。

 私には美は遅く来る。人よりも遅く、人が美と官能とを同時に見出すところよりも、はるかに後から来る。みるみる乳房は全体との聯関を取戻し、……肉を乗り超え、……不感のしかし不朽の物質になり、永遠につながるものになった。

 私の言おうとしていることを察してもらいたい。又そこに金閣が出現した。というよりは、乳房が金閣に変貌したのである。(『金閣寺新潮文庫 pp.192-193)

 若しもプラトンの論じる「理性的認識」を完全に備えた人の感受性というものを想像するならば、正にこの「性的不能」に関する記述が相応しいのではないだろうか。事物の生成的な側面ではなく、飽く迄もその本質的な「実在」の部分だけを捉えようとする精神においては、欲望の官能的な興奮など有り得ない。周知の通り、プラトンは肉体的な感覚の齎す快楽を徹底的に侮蔑している。対話篇「パイドン」において、プラトンは「実在」に関する理性的認識の完全な実現は、肉体の棄却、つまり「死」を経由しない限りは達成されないとソクラテスの口に語らせている。これほどの極端な合理論、カント風に言えば「純粋理性」の働きの裡に逼塞した超越的賢者の生活は、生成するものを常時把握する感性的認識の徹底的な弾圧の上に立脚しているのである。「乳房は私の目の前にありながら、徐々にそれ自体の原理の裡にとじこもった。薔薇が薔薇の原理にとじこもるように」という文章などは、プラトンにおける「真実在」の定義に見事に適合しているように読める。

 他方、こうした純然たる理性的態度と対蹠的な認識の形態とは、例えば次のようなものである。

 私は蜂の目になって見ようとした。菊は一点の瑕瑾もない黄いろい端正な花弁をひろげていた。それは正に小さな金閣のように美しく、金閣のように完全だったが、決して金閣に変貌することはなく、夏菊の花の一輪にとどまっていた。そうだ、それは確乎たる菊、一個の花、何ら形而上的なものの暗示を含まぬ一つの形態にとどまっていた。それはこのように存在の節度を保つことにより、溢れるばかりの魅惑を放ち、蜜蜂の欲望にふさわしいものになっていた。形のない、飛翔し、流れ、力動する欲望の前に、こうして対象としての形態に身をひそめて息づいていることは、何という神秘だろう! 形態は徐々に稀薄になり、破られそうになり、おののき顫えている。それもその筈、菊の端正な形態は、蜜蜂の欲望をなぞって作られたものであり、その美しさ自体が、予感に向って花ひらいたものなのだから、今こそは、生の中で形態の意味がかがやく瞬間なのだ。形こそは、形のない流動する生の鋳型であり、同時に、形のない生の飛翔は、この世のあらゆる形態の鋳型なのだ。……蜜蜂はかくて花の奥深く突き進み、花粉にまみれ、酩酊に身を沈めた。蜜蜂を迎え入れた夏菊の花が、それ自身、黄いろい豪奢な鎧を着けた蜂のようになって、今にも茎を離れて飛び翔とうとするかのように、はげしく身をゆすぶるのを私は見た。(『金閣寺新潮文庫 pp.200-201)

 蜜蜂と夏菊の描写が、官能的欲望の暗喩であることは論を俟たない。こうした性的享楽の現場においては、具体的な個物は「形而上的なものの暗示」から切り離されて、純然たる感性的な対象に、即ち「形態」に還元されている。しかし、超越的で理念的な「実在」の来臨は、こうした純然たる官能的享楽の実現を根底から阻害する。それは総ての事物を「永遠の相の下に」眺めさせる。そのとき、個別的で具体的な「生成するもの」の価値は極限まで切り下げられてしまうのである。

 生きることが「生成」の裡に存することだとすれば、思惟することは「実在」の裡に住まうことであると言える。物語の前半においては、若い寺僧は「実在」の魅惑に支配されていた。しかし敗戦及び柏木との邂逅を分水嶺として、寺僧の実存的な方針は急激な「転回」を示す。彼は「実在」の介入に伴う「生成」の不能という厄介な病理に苦しみ始めるのである。

 誇張なしに言うが、見ている私の足は慄え、額には冷汗が伝わった。いつぞや、金閣を見て田舎へかえってから、その細部と全体とが、音楽のような照応を以てひびきだしたのに比べると、今、私の聴いているのは、完全な静止、完全な無音であった。そこには流れるもの、うつろうものが何もなかった。金閣は、音楽の怖ろしい休止のように、鳴りひびく沈黙のように、そこに存在し、屹立していたのである。(『金閣寺新潮文庫 p.81)

 「実在」は感覚的な認識の対象ではなく、ただ純然たる思惟を通じて抽出され、構成される透明な理念である。「実在」に魅惑され、その虜囚と化すことは、感覚的な世界、肉体的な領域への参与を禁圧する。そうした禁圧を撥ね返す為に「私」が選んだ最終的な手段は「放火」であった。無論、それは「金閣」という理念的実在そのものを完全に抹消する営為ではない。焼け落ちた金閣は、その歴史的価値ゆえに国策として再建される。そして再建という現実は「金閣」という理念的実在の不滅を傍証するだろう。だが、固より金閣寺への放火が或る象徴的な営為であることは言うまでもない。物語の結末において、不穏な「仕事」を済ませた「私」が「生きよう」と思うのは当然の帰結である。そもそも彼は「人生」に参与する為の止むを得ない手段として「放火」に及んだのだから。

金閣寺 (新潮文庫)

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パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

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