サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(創造と管理)

*働きながら、日々考える。それが人間の普通の暮らしである。仕事というものは、殆ど総ての人間が関わりを持つ普遍的な営為で、その形態は歴史的状況や環境の強いる条件に応じて数多の変遷を重ねてきたけれども、それが人間の生存の中核を占めるものであることに変わりはない。「ワーク・ライフ・バランス」という言葉が近年頻々と我々の鼓膜に触れる機会が増大しているが、それは過重な労働によって病気や自死に至るような本末転倒の悲劇を予防する為の考想であり、浮薄な連中が誤解するように「仕事の分量は最低限に抑えるべき」「仕事よりも私生活を重んじるべき」といった怠惰な信念を補強する為のものではない。

 人間は太古の昔から労働を重ねてきた。狩猟や採集に出掛けたり、田畑を耕して穀物や青果を収穫したり、そのような食糧の確保や、寒暖を凌ぐ為の住居の建設や被服の製造が、つまり「衣食住」の安定的な確保が、原始的労働においては直接的な目標であっただろうと考えられる。その目的は今も変わらないが、分業社会が発達し、高度で大規模な集住が世界的に展開されている現代においては、総ての労働者が直截に食糧の調達や住居の建設に携わる訳ではない。農家は農業に、大工は建築に邁進し、それぞれの職分において全力を尽くす。そして作り上げられた成果を相互に融通し合う為に「貨幣」という便利な媒体が考案された。作物を売って手に入れた金で農家は住居を買い、被服を買う。同様に大工は家を建てた報酬で日々の食糧を購入する。そうやって互いに分業し、労働の成果を分有しながら総体としての社会を成立させ、運営している。

 その意味では、労働の構造は大幅に変貌したけれども、その最終的な目的が「生き延びること」に存する事実は聊かも動かない。従って労働とは、自己実現や快楽以前に先ず「生き延びること」に寄与するものでなければならない。

 どんな会社でも組織でも、規模が大きくなれば「管理部門」が肥大するのは世の習いである。それは個々の労働を通じて創造された「成果物」を管理し、計量し、分配し、保存する機能である。従ってそこには権力が集中し易い。けれども、管理は既に存在するものを支配する技術であって、創造ではない。それは新たな価値を生み出すものではなく、既成の事物を管轄する「交通整理」の役回りなのだ。

 要するに私が言いたいことは、どんな労働においても、最終的に重要なのは「管理」よりも「創造」であるということだ。「創造」は未だ存在しないものを新たに作り出す営為である。無論、あらゆる労働は「管理」と「創造」の複雑なグラデーションでありアマルガムであるから、両者を部門として明瞭に切り分けることは出来ない。問題は、その優先順位である。「創造」の存在しない場所で「管理」だけに明け暮れても、それは新たな未来を開拓する見込みを持たない。「管理」の精度を高める為に「創造」に附随する不確定性を抑圧したり減殺したりするような本末転倒の判断は差し控えられるべきである。

 この「創造」という概念を、殊更に芸術家の専売であると看做してはならない。或いは一般企業においても「企画」や「開発」と称される職能だけが特権的な創造性を享受する部門であると思い込みがちであるが、無論これは浅薄な誤解である。創造性は、特定の職能と無条件に紐付けられた能力ではない。管理部門に所属していても、それが創造性の発揮を妨げることはない。管理の方法において創造性を発揮する余地は充分にある。

 そもそも「創造」とは何か。その定義に関しては様々な議論が活発に行われている。大体の場合、それは「無から有を生み出すこと」ではなく「異質なものを交配すること」であると結論している。それによって新しい現象や成果を作り出すことが「創造」の本義である。古色蒼然たる既定の設計図に則り、いわば雛型を幾度も模写するようにして何かを製造することは必ずしも「創造」であるとは看做されない。重要なのは、それが不透明な見通しの下に行われる一つの挑戦であり博打であるということだ。既存の事物を複製することは創造とは呼ばれない。そこに僅かであっても構わないから、何かしら異質な要素を混入する必要がある。例えばそれは遺伝子における「突然変異」(mutation)に譬えられるべきであろう。繰り返される複製の最中に突発的且つ偶発的に生じる微細な変異が、新たな事物の創造を作り出す。ここから、古代ギリシアの哲学者エピクロスが提唱し、ルクレーティウスが継承した「クリナメン」(clinamen)という概念を想起するのは自然な帰結である。

 恐らく「創造」の本質とは「変異」或いは「偏差」を惹起することに存する。従って、それは組織における職能の内容とは原則的に無関係な問題である。ただ、創造と管理という一対の二元論的構図において、創造が変異を愛好し、管理が変異を忌避するという一般的図式を素描してみることは可能であろう。私も含めて、社会人として何処かの組織に十年以上も勤めれば、否が応でも何かしらの対象を管理する業務を宛がわれるものである。いや、労働者でなくとも、例えば学生であっても、時間を管理したり学業の課程を管理したりすることは家常茶飯の事柄であろう。そういう管理の場面において、管理者が忌み嫌うのが「変則」や「例外」であることは明白である。総ての事象が規則に基づいて整然たる行進を持続してくれれば、管理者の業務的負担は大幅に減殺される。「変則」や「例外」の逓減は、管理者にとっては業務上の成果に他ならないのである。

 だが、創造することは、そのような「変則」や「例外」にこそ「勝機」や「希望」を見出す作業である。如何なる逸脱も偏差も存在しない場所では、厳然たる必然性の規律だけが無限の進行を続ける。優れた技術を有する画家であっても、彼の作品が千篇一律の規則に忠実であるならば、彼は有能なクリエイターであるとは認められないだろう。彼は定められた製品を大量生産する有能で精密なプロデューサーとして評価されるが、その製品は画期的な創造性、斬新な価値とは無縁である。何故なら彼は、只管に既成の雛型から無限の複製を積み重ねることに専心しているからである。

 「創造」とは、無から有を取り出す超越的な奇術の名前ではない。それは事物の裡に変異を持ち込むことであり、その変異が微細なものであっても、累積すれば出力における変化の総量は莫大なものとなる。現状の変革、それが「創造」の根源的本義であり、芸術家のように作品を生み出すこと自体が「創造」の名に値する訳ではないのだ。そうした謬見は、事物の表層だけを見て「創造」という概念を漠然と定義することから生じる軽率な断定に過ぎない。「変異」だけが「創造」を可能にする。そもそも何かを作り出すという作業自体が、既存の事物を「変異させる」作業に他ならないではないか。野菜や肉を一皿の料理に変化させることも「創造」であり、油脂の汚れに塗れたガスコンロを艶やかに磨き上げることも一つの「創造」である。何も手を加えず、何も変化させようとしない頑迷な保守性が「創造」にとっては不倶戴天の宿敵なのである。こうして自分の頭の中身を日本語の文章に置き換えることも間違いなく「創造」の一環だ。そういう「創造的作業」を生活の内部に根付かせること、それがより善い生を営む為の基礎的な心得であると私は思う。