サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「野心」と「幸福」の転轍 三島由紀夫「クロスワード・パズル」

 三島由紀夫の短篇小説「クロスワード・パズル」(『真夏の死』新潮文庫)に就いて書く。

 ホテルマンという職業と「愛慾」との間には、俄かに切り離し難い緊密な関係が存在する。例えば「ホテルに行く」という表現の裡には、情熱的な愛慾の陰翳が含まれているだろう。そこに黒子として勤める人々の眼差しは否が応でも、繊細極まりない男女の機微に触れざるを得ない。寧ろ、そうした捉え難い消息に通暁する観察眼を日頃磨いていなければ、顧客の応対に関して思いがけぬ失策を犯しかねない。それは彼らの職業的な道徳律に抵触する行為である。

 何という同じような微笑、同じような羞恥、同じような幸福だろう。僕は人間の野心というものは衆にぬきん出ようとする欲望だが、幸福というものは皆と同じになりたいという欲求だということを理会した。(「クロスワード・パズル」『真夏の死』新潮文庫 p.147)

 この一節は「クロスワード・パズル」という作品の精髄を成す部分であると思われる。要するに彼は「幸福」と「野心」との間に或る本質的な径庭を見出しているのである。「幸福」とは煎じ詰めれば「安心」への欲望であり、劇しい感情の乱高下とは無縁の閑寂な境地へ至ることを本懐としている。他人と同じ規範を共有することで得られる宥和的な感情は、敵愾心の解除であり、或る自堕落な埋没の形態である。しかし「野心」は違う。それは他者に優越しようとする攻撃的で挑戦的な欲望であり、野心家にとって凡百の他人と同じ扱いを享けることは屈辱以外の何物でもない。他人が為し得ないことを為すのが野心家の最大の愉楽であり、彼らは劃一的な幸福に溺れて恥じらいもしない人々の安閑たる精神を大いに侮蔑するだろう。

 青年は「野心」に手を出して滑稽な挫折を味わい、平凡で安全な「幸福」の境涯へ向かって雨宿りをするように逃げ込んだ。それを人は「成熟」と呼ぶだろうか。血気盛んな命知らずの青年が、手痛い敗北に打ち拉がれて現実の峻厳な性質を思い知り、或る諦念と絶望の陰翳を身に纏うようになることを、世間は「成熟」であり「大人への階梯」であると言いたがる。この素朴な通念は、絶えざる過激な夢想家として半生を閲した三島にとっても、切実な問題であったろうと思われる。

 三島は「幸福」を憎み、蔑んだ男であると言ってもいい。平俗な日常を忌み嫌い、特権的な栄光に浴することを熱烈に望んで、実際に作家としては充分な名声を勝ち得た彼は、恐らく「鏡子の家」の執筆に取り組んでいた時期には、寧ろ「成熟」の呼び声に耳を傾けようと努力していたのではないかと思われる。けれども、彼の個人的な美学は「成熟」を「堕落」と同一視する根源的な性向を脱却し得なかった。「野心」の断念は、人間を凡庸な生活の枠組みに招き入れる。栄光も堕落もない、劇しい歓喜も地獄の悲しみもない、単調で静謐な日常性の領域に足を踏み入れることは、所帯を構え、作家として円熟しつつあった当時の三島にとっては、必要な「理念」であったに違いない。しかし、彼の内なる夥しいロマンティシズムは、無味乾燥な灰白色の「断念」を決して肯わなかった。完璧な幸福、社会の信奉する道徳的規範に隅々まで合致した善良な幸福は、猛々しい「野心」を摩耗させ、地上へ失墜させる。その堪え難い屈辱を結局、三島は受容しなかったのである。彼の作品に充満する「背徳」の異臭は明らかに、凡庸な「幸福」への根深い嘲笑に基づいている。言い換えれば、彼が愛したものは常に「悲劇的な栄光」の齎す凄絶な輝きに限られていたのである。

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)