サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主風土記 「金沢・加賀温泉郷」 其の二

 金沢の「ひがし茶屋街」を訪ねるのは生涯で二度目である。浅野川に架かる大橋を渡り、古びた町家の建ち並ぶ路地を、日盛りの陽光に焼かれながら緩々と進んでいく。角を折れると、一寸した広場のような空間に導かれた。「箔一」という名の、金箔を用いた土産物を扱う店に入ると、小さな太鼓橋が浅い水路の上に渡されて、娘は眼を輝かせて太鼓橋の膨らみの頂に佇み、人々の往来を悪気なく妨げた。

 戸外は猛烈な暑気に煮え立ち、三歳児を連れている事情も手伝って、茶屋街に長居する気分にはなれなかった。余りに陽光がくっきりと総ての事物を照らし出すので、歴史の風雪を堪え抜いた古雅な建物の眺めも、聊か索漠たる味気なさを醸している。夕暮れの橙と夜の紺青が入り混じる端境の刻限に訪れれば、もう少し味わい深い趣に出逢えるのだろうか。

 土産物屋の居並ぶ道を、私は娘のバギーを押して歩いた。妻は其処彼処の店頭を冷かしながら歩くので随分と遅れた。浅野川大橋へ続く城北大通りの手前まで来て、偶々見掛けた「金澤烏鶏庵」という店で芳醇なソフトクリームを買い、路傍に屈んで娘と仲好く分け合った。やがて追いついてきた妻も仲間に混じり、ソフトクリームは融けるよりも先に三つの胃袋の中へ吸い込まれて消えた。

 大通りを渡り、浅野川大橋を通って、今度は川端に連なる主計町茶屋街を散策した。金沢城の内堀の遺構を活かして整備された小さな公園があり、娘は喜んで水辺を覗き込み、階段を登って燥ぎ回った。死んだように眠る料亭の並びを離れ、百万石通りの方角へ舵を切る。尾張町の交差点を渡り、緩やかな傾斜を登って、金沢城公園を目指す。途中、NHK金沢放送局の傍のセブンイレブンで一服し、大手門を抜けると、目路の際まで続く広大な緑地が姿を現した。一面に、夏の苛烈な光が燦然と降り頻っている。

 木蔭のベンチで憩う妻を残して、私と娘は芝生の上を走り廻った。しかし、余りに暑いので直ぐに気力が萎え、娘は抱っこをせがんだ。バギーに乗せて、行く手に聳え立つ金沢城河北門を目指した。門の上層部は簡易な休憩所のように整備されていて、複数の扇風機が唸り声を上げながら生温い風を攪拌して寄越した。汗で濡れそぼった躰を冷ますべく、私と妻は椅子に腰掛けて涼んでいたが、娘はその間も活発に駆け回って、時々床の上で盛大に跳ねてみせる。子供の気力というものは無尽蔵であるらしい。

 石川門を抜け、兼六園の麓で遂に我々の徒歩に対する情熱の在庫は払底し、百万石通りへ下って路線バスに乗り込んだ。広坂の交差点を折れた辺で下車し、金沢21世紀美術館の外構に置かれた幾つかの展示品で遊んで写真を撮った。Colour activity houseと名付けられた作品の内部を、娘は上機嫌に走り廻って笑顔を滾れさせた。

 美術館の円形の建物に沿って外周を回り込み、用水路に沿った道筋を進んで香林坊へ抜けた。東急スクエアスターバックスで再び休憩に時間を費やし、少しユニクロに立ち寄ってから、再び夏の外気の中を、北へ向かって歩く。既に夕刻を迎え、ホテルのチェックインの時刻が迫っていた。北鉄バスに乗って、金沢駅へ向かう。コンコースを縦断し、地下道へ潜って、けやき通りに面した第一夜のホテルへ辿り着いた。

 チェックインの手続きを済まし、十階の部屋に落ち着くと、私の着ていた白いティーシャツの背中に青い汚れが付着していることを妻が発見した。恐らく、金沢城公園の芝生を、娘を負ぶって駆けたときに、青いデニムのワンピースの染料が、汗を媒として色移りしたものと推測された。私は洗面所のハンドソープを使って化繊のシャツを入念に洗い、ハンガーに干した。

 そろそろ夕食の献立を定める時刻であった。娘を再びバギーに乗せて、金沢駅の方角へ引き返す。居酒屋は数多いが、娘の口に合う料理を出してくれそうな店は容易に見つからなかった。困惑して歩き回るうちに、娘は日中の疲れが祟って眠りに落ち、我々はとりあえず具体的な腹案のないまま、駅ビルへ引き返した。彼是と吟味した揚句、せめて金沢旅行の証が伴うものを選びたいと考えて、我々は「金沢駅総本山」の冠詞を賦与された「ゴーゴーカレー」へ入った。如何にも味が濃く脂っこい、仕事帰りの勤人に好まれそうな料理である。我々の食事中、娘は昏々と眠り続けていた。

 帰りにコンビニに立ち寄って、娘の食事を誂えたが、ホテルで目醒めた彼女は、事前に買ってあった胡桃のパンを食べたいと言い張り、その他の食べ物は峻拒した。栄養の偏りが心配だったが、意固地な彼女は大人の提案や言い分に対して、そう容易く妥協はしない。

 徐々に起き抜けの不機嫌を脱し始めた娘を伴って、私はホテルの大浴場へ出掛けた。娘にとっては生涯で初めての巨大な浴場体験である。彼女は日頃から極めて気軽に「ちんこ」という単語を面白がって発する悪癖があるので、男湯へ連れていく前に、絶対に浴場では「ちんこ」と言ってはならないと厳命し、娘の口約束を得た。

 今まで見たこともない大きな湯舟に、娘は好奇心と冒険心を唆られて、頗る快活であった。しかし、聊か湯温が高かったようで、浸かって一分も経たぬうちに出ようと提案してくる。浴場の片隅に、寝そべって浸かる形式のジェットバスがあり、娘は興味津々であった。