サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「サラダ坊主日記」開設四周年記念の辞

 過日、八月二十五日を以て、この「サラダ坊主日記」というブログは開設四周年の節目を迎えた。

 四年間も飽きずに、誰に求められる訳でもなく、雑多な文章を書き続けて電子の大洋へ垂れ流す日々を続けてきたのは、誠に好事家の奇習と言うほかない。その間に私生活においても仕事においても様々な変化があり、その節目毎に懐いた考えや想念は、このブログの随所に痕跡として刻まれている。そういう人生の記録として、ブログというメディアは相応しい性質を備えていることは確かである。

 この半月ほど、小説を書くことに熱を上げていて、ブログの更新は間遠になっている。ブログを書くことで、私の内なる「書きたい」という欲望の多くは充足されてきたのだが、ここに来て、物足りない飢渇が俄かに強まった。自分が日々の生活を通じて得た諸々の所感と、生活と労働の合間に読み進めた書物の感想を書き並べることだけでは、癒されない空白が自分の胸底に潜んでいるのではないかという観察が、不意に説得力を増したのである。それが正しい省察なのかどうかは分からない。三島由紀夫の小説ばかり飽きるほど読んで、刺激と触発を享けたのかも知れない。他人の作品を論評するだけで、自らは何一つ生み出さない自分の生活に嫌気が差したということもある。

 小説を読むこと、或いは哲学書を読むことは、他人の考えや価値観を学ぶことである。それ自体はとても崇高で重要な、生きることの根幹を成す基礎的な習慣であると今も思う。だが、それは飽く迄も他人からの贈り物を享受することであって、他人に何かを贈る営為とは異質である。私は私自身に固有の何かを創り出したいと願うようになった。それはかつて、小説家になることを夢見ていた若き日の自分自身の宿願に立ち帰ることに等しい。

 小論文教育で著名な山田ズーニー氏が「ほぼ日」に書いている文章の中で「自己表現」という内在的対話の営為の限界と、作家や俳優という職業の人々が日々取り組んでいる「他者表現」という生き方に就いて触れている。「他者理解」の精度が極限まで高まったとき、それは「他者表現」という新たな段階に移行するのだということが、私の読み取った主要な文意である。他人の小説を読むことが「他者理解」の形ならば、恐らく小説を書いて未知の虚構の人物を創造することは「他者表現」に他ならないだろう。つまり、これまで小説の感想文を書き散らすことに血道を上げてきた日々、そして実際の人生において触れ合ってきた夥しい人々の記憶は、小説を書くことに直結する重要な鍛錬であり、滋養の摂取であったのではないかと思うのだ。その滋養の中身は今後も日々培われ、更新されていくのだろうが、生活から汲み取った様々な知見や洞察を、小説という虚構の裡に結晶させることは、私が生涯の序盤において夢見ていた人生の理想的な姿形に合致するのではないかと思うのだ。

 とにかく小説をたくさん書こうと考えている。「カクヨム」に投稿しているので、良かったら検索してみて欲しい。自分の限界を一歩ずつ踏み越えていけるような、そういう生活を送りたい。