サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

無頼派雑記

 俗に「無頼派」と呼ばれる作家の一群がある。明瞭な定義を問い訊ねても無益だが、一般にその双璧は太宰治坂口安吾である。

 彼らを「無頼派」と称する所以は生憎審らかにしないが、少なくとも太宰と安吾に関して言えば、彼らが社会の醇風良俗と対峙する作家であったことは史実として明白である。彼らは体制への順応を忌避し、良くも悪くも身勝手で我儘な生き方を貫いた。彼らは社会的な良識に頼らないという意味では確かに「無頼派」である。しかし、人間が本当に如何なる頼りも持たずに生きることは出来ない。人間は必ず何かに依存することで、精神の破局を免かれている。

 無頼派の作家が依存する根拠は主に三つ、即ち「芸術」「異性」「薬物」である。彼らは優秀な頭脳を持ちながら「芸術」に溺れて学業を放擲し、「異性」に溺れて平穏な生活に支障を来し、「薬物」に溺れて肉体的な寿命を大幅に縮めた。太宰も安吾織田作之助も短命な作家である。特に太宰は心中未遂を繰り返し、最終的には成功して玉川上水で情人と共に果てた。社会の一般的な価値観に基づけば、彼らの品行は下劣極まりない。小説家という職業は、二葉亭四迷の時代には男子の正業であるとは看做されていなかった。帝大教授の地位を抛って小説家の暖簾を掲げた夏目漱石の英断は、画期的なものだったと言って差し支えない。絵空事を、つまり「嘘」を書き連ねることに生涯を捧げるという働き方は「虚業」だと蔑視されていたのである。その「虚業」に溺れ、女の魅力に溺れ、薬に手を出して抜けられなくなるという生き方は、現代的な価値観に照らせば明らかに「敗残」である。だが、彼らが提示したものは、単なる社会の暗部に過ぎないのだろうか? 言い換えれば、社会の「闇」には如何なる意義も認められないのだろうか?

 小説は綺麗事を書くものではない。つまり、社会の主流派のプロパガンダを演じる装置ではない。それは人間のあらゆる可能性を描き出すもので、人間の如何なる醜悪な側面にも表現と理解を与えるものである。従って小説の世界には社会的な道徳の容喙すべき余地は欠片もない。どんな残酷で理不尽な殺人も、小説の中では克明に、時には美しく描き出される。小説はメッセージではなく、何らかの主義主張を樹立する便よすがではない。だから、あらゆる小説に向けられる道徳的論難は意味を成さない。

 社会的には明らかに「破綻」の部類に属する彼ら無頼派の作家が「文筆」の稼業に終生縋り続けたのは、そこだけに彼らの魂を肯定する力が潜んでいたからだろう。時代に応じて一国の主要な価値観は変遷するが、私たちは生まれる時代や土地を任意に選ぶことが出来ない宿命を負っている。百年後には理解される価値観も、この瞬間においては万死に値する大罪と看做され厳しく詮議されるかも知れない。それをそのまま自己の意見として表出すれば、待っているのは社会的冷遇、或いは断罪だけである。だからこそ小説家は「虚構」の力を借りて存在し得ない異郷を構築し、それによって魂の救済を図るのである。