サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

不貞と絶望 レイモン・ラディゲ「ドルジェル伯の舞踏会」

 レイモン・ラディゲの遺作『ドルジェル伯の舞踏会』(光文社古典新訳文庫)を読了した。

 年上の女性との早熟で破滅的な不倫を描いた処女作「肉体の悪魔」と比べると、この作品は遥かに大柄で、貫禄のある小説に仕上がっている。日夜、煩瑣で華麗な社交に明け暮れる上流階級の風俗を背景に、再び「不貞の恋路」を描き出すラディゲの筆致は、人間の心理の複雑怪奇な絡繰に鮮やかな照明を宛がっている。尤も、この「ドルジェル伯の舞踏会」における心理的な攻防は、かつて「肉体の悪魔」で描かれた背徳的なエゴイズムに比べれば、ずっと御上品で抑制的な洗煉に鎧われている。彼らは破局的な恋愛から程遠く、その分だけ彼らの心理は繊巧な離れ業を繰り返し演じ続けなければならないのだ。驕慢な少年のエゴイズムが下品なほど露骨に剝き出されていた「肉体の悪魔」では、これほど繊細な心理的駆け引きの描写は不要であったろう。破局を避け、体制との順応的な宥和を保とうと試みれば試みるほど、不倫の愛慾は厳格な統制に服さねばならない。そして、その厳格な統制が却って恋愛の情熱を燃え立たせ、秘められた慕情を美しく浄化する。「肉体の悪魔」は文字通り、悪魔に取り憑かれた男女の見苦しく浅ましい破綻の物語であった。しかし「ドルジェル伯の舞踏会」は、世間的な道徳を「肉体の悪魔」の少年のように勇ましく敵視していない。言い換えれば、「肉体の悪魔」は「世間」や「社会」の強いる戒律の厳しさに無智な少年の軽率な蛮行が、徐々に社会の論理によって腐蝕され穢れていく過程を描いた作品であったが、この「ドルジェル伯の舞踏会」に登場する人々は、良くも悪くも「名誉」や「体面」を重んじる通俗的な、つまり成熟した大人たちなのである。その分、作品の幕切れにおけるアンヌ・ドルジェルとマオとの決定的な疎隔の描写は、絶望の様相を深める。社会的な圧力が強い場所では、実際の愛情よりも、幻影としての愛情、体裁としての愛情が重要な価値を帯びる。破滅という結論さえも認められない場所に囲われた、鳥籠の網目越しに、マオは愛しいフランソワを見凝める。但し、そうした感想から一足飛びに、旧弊な道徳に抑圧された真実の愛というロマンティックな御題目を抽出するのは聊か軽率であろう。恋愛の情熱は、障害の強度によって高められる。公認された男女関係が倦怠に陥り易いのは、そこに障害が欠如している為である。障害の欠如は「生活」にとっては紛れもない勝利だが、少なくとも「恋愛」にとっては退屈と虚無以外の何物でもない。何時でも会える恋人には、誰でも退屈する。男が家庭を放置して不倫に走ったり仕事に精を出したりするのは、女の側の落ち度ではなく、情熱の原理が強いる不可避の現象に過ぎない。言い換えれば、恋愛というのは常に「人生の余興」という地位に留めておくのが最も賢明で、それでこそ恋愛の魅惑は極限まで最大化されるのである。男女の愛に人生を賭して総てを捧げるのは端的に依存症患者の悪徳である。

ドルジェル伯の舞踏会 (光文社古典新訳文庫)

ドルジェル伯の舞踏会 (光文社古典新訳文庫)