サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(作り出すこと / 元に戻すこと)

*最近は専ら「カクヨム」というサイトで、自作の小説を書き綴ることに熱中している。それ自体は案外愉しく、それなりに夢中にはなっているのだが、私の悪い癖で、時折虚無の隙間風が胸底を駆け抜ける。自分は本当に小説を書きたいと考えているのだろうか、それが私の本当の願いなのだろうかと、考えても埒の明かない問題が脳裡を過るのだ。

 だったら書くのを止めればいい、気が向いたときだけ書けばいいじゃないかというのが当然の理窟だが、その当然の理窟に心から納得が行く訳でもない。最近、バンジャマン・コンスタンの『アドルフ』(光文社古典新訳文庫)という小説を読み始めた。コンスタンは夥しい分量の著述を遺した人物だが、その本懐は政治で、小説はほぼ「アドルフ」一作のみと看做して差し支えないらしい。にも拘らず、コンスタンの経歴から眺めれば余技に等しい「アドルフ」は、フランス心理小説の輝かしい連峰の一つに数えられ、冷徹な恋愛小説の極北と謳われている。作者自身が第三版の序文において、自分はもう「アドルフ」に関心を持っていないし、その価値も全く認めていないと冷淡に言い放っているにも拘らず、その作品は不朽の名声を勝ち得ているのである。

 こういう事例に接すると、果たして私は本当に「小説」という代物に向き合って心から救われているのだろうかという疑念が生じてしまう。例えば三島由紀夫は、優れた芸術家として数多の作品を送り出しながら、最終的には「文弱」の生涯に満足出来なくなり、いわば自分自身の存在を作品化して、芸術と現実、虚構と現実との隔たりを力尽くで突破しようと試み、あの奇矯な末期を遂げた。小説は虚構を通じて「別の人生」を編み出す試みである。そこに小説を書く歓びが宿る訳だが、果たして自分は存在しない架空の人生を歩むことに、それほど熱烈な憧れを宿しているだろうか? 私は私の現実的な人生にしか興味がないのではないか? つまり、私は芸術家を志すには余りに通俗的な人間ではないだろうか?

 小説を書くことに血道を上げると、社会的な現実は明確に遠退いていく。現実が現実として自分の体内に流れ込んでこないような気がする。若年の頃、私が文学に憧れたのは、それが現実を超越する魔術的な効能を備えていると感じた為だった。それは私の臆病な魂が生み出した欲望であり幻影であった訳だが、結局のところ、私は様々な偶然に引き摺られて、美しくもない現実の渦中に溺れて日月を閲してきた。それが生きることの本来的な姿であることは疑いを容れない。だが、世の中にはまるで巫女のように、異界の物語を形作ることに本能を奪われた人間が存在する。彼ら語り部は、存在しない誰かの人生を語ることに比類無い才能を発揮し、その作物は猥雑な大衆に人生の新たな側面、未踏の側面を報せる役目を果たす。それは役回りの問題で、彼らは巫女として降霊の労役に励む代わりに、自分自身の存在を空っぽの器に変えなければならない。三島が苛立ったのは、こうした芸術家の内在的な虚無に対してではないかと思われる。彼は他人の人生よりも自分の人生が大事だった筈で、もっと言えばわざわざ他人の人生を借りて自己を告白する迂遠な方法に飽き飽きしたのではないか。誰かに憑依するのではなく、それを現実の世界に引き摺り込みたかったのではないか。三島は芸術的なテロリストであり、幻想を現実化する為に奇怪な自裁を選んだのだ。

 批評家は、芸術の向こう側に透けて見える現実の断面図を復元しようと試みる。それは芸術家が数多の現実的材料を細かく砕いて入念に攪拌し、全く新たな異物を創造するのと丁度、対蹠的な行為だ。批評家は総ての事物を本来の場所へ帰還させようとするが、芸術家はあらゆる事物を「作品」という一つの夢想の中に集約しようと企てる。批評家は分解し、芸術家は総合する。現実を思い知ることが好きか、退屈な現実を組み替えて壮麗な幻影を拵える方が好きか、これは趣味の問題であると同時に生き方の問題だ。私は何れの実存に惹かれているのだろう?

 私は批評家と芸術家との間に補完的な共存の関係が築かれるという都合のいい夢想など期待していない。彼らは人種が異なり、相互に関心の在処が異なる。批評家の言葉が、芸術的創造の発展に資するというのは眉唾の見解だ。勿論、相互的な刺激は生じ得るだろうが、どんな職業の人間でも、全く異質な商売の人間から刺激を享けることは大いに有り得る話なので、芸術家と批評家との間に特権的な友誼を期待するのは馬鹿げているし、視野狭窄である。