サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(雑文の区画整理)

*自作の小説を「カクヨム」に移管した上で続きを書いたり推敲したりしている関係で、このブログから小説作品と、それに関連する幾つかの記事を纏めてバッサリと削除した。合計すれば二〇〇件ほどの分量となる。随分とスリムな体形を恢復したような気分で、聊か未練も残しているが、復元の誘惑には今のところ抗している。

 昨夜も頑張って小説を書いたが、心の奥底で迷いが生じている。一体何に迷っているのか。それは創作に労力を費やすのは虚しい作業ではないかという疑念で、そういう疑念に囚われる時点で余り芸術的な創造には向いていないのではないかと思われる。本物の芸術家、本物の造物主は、その作品の巧拙はさておき、何かを創り出すという作業に病的な嗜癖を持っている筈である。ドイツ語の著名な詩人であるライナー・マリア・リルケは「若き詩人への手紙」の中で、詩人を志す無名の若人に対して「自分が書かずにいられないかどうか、書かなくとも生きていけるかどうか」を自分自身に問い掛けるよう促している。他のことが出来ないから小説家になるのだという言説は、しばしば本職の作家によって口にされる反語的な自負であり、彼らは自らの従事する「虚業」を謙遜しつつ、俗世に埋もれる夥しい民衆を密かに排斥しているようにも聞こえる。そもそも「創造」は芸術家の独占の対象ではなく、あらゆる稼業は多かれ少なかれ「創出」の部門を備えている。端的に言って、小説家という稼業においても真の独創を成し遂げる人物ばかりが跋扈している訳ではなく、紋切り型の製品を量産する産業的な種族の作家も少なくない。どんな世界でも「創造」や「革命」は一握りの選良だけが実現出来る特権的な栄光であり、大多数の人間はその栄光の片鱗に浴して肌を温めるだけの存在に過ぎない。

 小説家である為には、小説を生み出すことに或る盲目的な情熱を、心理的な胎動を感じていなければならない。その胎動を感じられない人間が、創造的な種族を真似ても表層の模倣に留まるであろうことは容易く想像される。わざわざ「小説」という形式に固執するのならば、相応の特性が要るのだ。書くことは小説家の専売特許ではない。市井のビジネスマンも小学校の生徒も筆まめな老人も水商売の御令嬢も皆、何らかの形で文章を書く時間を持つことがあるだろう。それを殊更に「小説」という「虚構」に限るのは何故なのか。何故「虚構」を拵える必要があるのか。存在しない他人の口を借りて、色々な言葉を書き連ねるのは、如何なる衝動に基づく営為なのか。恐らく、小説家は存在しないものに形を与えることに創造の歓びを感じている。それを「自分の意見」の冗漫なる開陳ではなく「虚構の人生」の構築として味わうのが小説家の内在的な特質だろう。

 やはり最も肝腎な点は、ミラン・クンデラが「小説の技法」において述べているように、その書き手の主要な関心が如何なる対象に向けられているか、という点に存するだろう。筋金入りの物語作者は、透明な霊媒のように「他人の物語」を悉く吸い込んで、それを独自の文章に乗せて美しい音楽のように紡ぎ出す。だが、例えば批評的な気質の色濃い書き手は「他人の物語」に憑依されることよりも「自分の意見」を貫いたり磨き直したりすることの方に関心を寄せるだろう。言い換えれば、それは「主語の強さ」によって左右される問題なのだ。主語の弱さ、或いは自他の境界線の曖昧な溶解は、自ずと「他者の物語」への深い没入を喚起する。主語の強い人間は「他者の物語」に共振する代わりに、その客観的な考察を重んじる。彼らは自分自身の物差しを安易に手放すことが出来ないのだ。両者の違いは、一概に善悪の規矩で切り分けられるものではない。高度な共振性は、場合によっては自我の崩壊を齎すだろうし、余りにも堅牢な自我は、他者との親密な紐帯を切り離して、徹底した孤立の裡に沈むだろう。それらの要素は楯の両面であって、卓越した共振性は他者との奇蹟的な融合の可能性を持ち、堅牢な自我は如何なる逆境にも押し流されない強靭な信念と、現象に左右されない的確な判断力を備えるだろう。私自身の本心は、何れの道を選びたいと願っているのだろうか。わざわざ一方に偏する必要はないが、一定の年齢に達すれば無限の可塑性を愛するよりも、有限の時間を費やすべき対象を決定することに関心を払うべきではないだろうか。私は書くことによって「他人の物語」に溺れたいのか。それとも「自分の意見」を徹底的に洗煉し、成熟させたいのか。

若き詩人への手紙・若き女性への手紙 (新潮文庫)

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小説の技法 (岩波文庫)

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