サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(台風・人災・不測)

*昨夜は酷い雨風の音でまともに眠れなかった。夜中に雨戸の揺れる音と吹き荒ぶ風の唸り声で眼を覚まし、一旦は寝入ったものの、明け方に台風が千葉市へ上陸して、騒音で再び揺り起こされた。今まで経験したことのない激越な暴風雨である。電車は軒並み運休し、売り場へ向かう手段がない。止むを得ず、雨が収まった頃合いを見計らって幕張から千葉まで徒歩で通勤した。片道二時間の行程で、職場へ辿り着いた頃には靴に擦れた踵が痛みを発していた。

 前日の段階でJRが計画運休を発表していたにも拘らず、呑気に通常営業を決め込んでいた百貨店は、大規模な停電と交通手段の麻痺という現実に衝き当たって、土壇場で開店時刻の繰り下げを決めた。稲毛まで辿り着いたタイミングで、売り場から携帯電話に連絡が入り、私は報せを聞いて憤った。

 こんな愚痴を書き記しても詮無いことだが、恐るべき判断力の鈍さに私は呆れ果てた。市内に避難勧告が発令されている状況で、取引先の従業員を出勤させておきながら、俄かに開店を遅らせるとは、人を馬鹿にした振舞いだ。前日の段階で、遅延の方針を定めておけば済んだというのに。顧客の混乱も招く。二度と同様の人災が生じないことを祈るしかない。

*それにしても酷い台風だった。気象庁は「世界が変わる」という独特な表現を用いて未曾有の災害に備えるよう勧告を発したという。実際、あんな猛烈な雨風は、生まれて初めての経験かも知れない。徒歩で職場へ向かう途次、道端には色々なガラクタが転がっていた。民家の門前に錆の浮いた一振りのゴルフクラブが落ちていたのには当惑した。路上を掃き掃除している主婦の姿も何度か見掛けた。京成電鉄の駅はどれも、電車を待つ人々の長蛇の列で、見ているだけで怖気が湧き上がった。この蒸風呂の天候で、仕事へ行く為にずっと無為の時間を過ごさねばならないのは、不幸な話だ。二時間を費やして京成の線路沿いを歩き通した私の運命も悲惨だ。こういう日は、国家の旗振りで急拵えの安息日にしてくれたらいいのに。

*しかし、こういう不測の事態に血が騒ぐのは私の昔からの性分である。東日本大震災のときも、色々と変則的な日々を送った。無論、被災者の方々の悲運に比べれば、遥かに恵まれた境遇であったことは言うまでもない。だが、日常性の微かな裂け目は時に、人間を興奮させ、時ならぬ活気を誘き出す。悲劇が日常性を徹底的に粉砕した場合には、そんな生温い戯言は口に出来ないだろうが、適量の椿事は寧ろ人間の魂に束の間の慈雨を齎すのではないか。私の母親は、家の窓越しに台風や落雷の街並みを眺めることを好む人だった。そういう母の姿を父が揶揄するのを、子供の頃に幾度か耳にした覚えがある。日常の切れ目、繰り返される日課を横切る唐突な断層、そういうものが、私は必ずしも嫌いではない。そうした亀裂は往々にして無益な苦痛や艱難を齎すが、少なくとも、そこには擦り切れた倦怠が存在しないからだ。

 倦怠は疲労とは異質だ。それは寧ろ「疲労しない」という現実的な条件に媒介されて顕れる心理的症状である。疲労する材料がなければ、人間は優雅な退屈の泥濘に溺れるしかない。疲労は充実の残響だが、倦怠は堕落した渇望の形態である。