サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(恋情の力学・論客の実存)

*引き続き、バンジャマン・コンスタンの高名な恋愛小説『アドルフ』(光文社古典新訳文庫)を読んでいる。恋心という感情の力学的な構造を鮮明に描き出すコンスタンの筆致は、性急なほどに簡明で合理的である。この作品に備わった、身も蓋もない冷徹な大人の諦観に比べれば、ラディゲの伝説的な処女作「肉体の悪魔」は、如何にも若々しい少年の情熱と絶望に鎧われている。ラディゲの筆致は極めて硬質であるという評価を享けているが、その鋼鉄の理智は成熟の証であるというより、青春の紛れもない刻印であると看做すべきではないか。エゴイズムと臆病な感情の入り混じる若者の暴虐を、ラディゲは自分自身の衣服として仕立てている。しかし、コンスタンの筆鋒は、情熱の化身としての自己を追憶の彼方へ予め放逐しているように感じられる。彼は既に情熱の行方を見届けている。彼は劇しい恋心の備えている酷薄で身も蓋もない力学的構造を知悉している。だから読者は、挫折する情熱の甘美な様相に感傷的な紅涙を絞ることが出来ない。

 この差異は恐らく「アドルフ」が背徳的な愛情の悲劇を描いたものではなく、維持されない情熱の齎す逆説的な悲劇を描いている為だろう。「愛されない不幸」や「引き裂かれる不幸」には突拍子もない激情の奔騰が美しい波濤を散らす余地が残されているが、愛情を失いながら関係を清算し得ない男の惰弱と狡智を描いた「アドルフ」においては、語り手の視線は必然的にセンチメンタリズムの泥濘を否定的に捉えずにはいられない。彼の苦悩の根源は、破滅的な愛情の狂気に身を委ねることが出来ないという「知性の悲劇」の裡に存する。溺れることが出来ないという苦悩の形式、それは三島由紀夫の「貴顕」を連想させる。「陶酔的な生」を排撃せずにいられない柿川治英という貴人の肖像を描いた「貴顕」の苦悩は、本質的に「アドルフ」の苦悩と通底している。

*小説をたくさん書くと勇ましく宣言してから半月ほどで、早くも私の筆は滞っている。続きを書こうと思えば書けるのに、書く理由を自分自身に巧く呑み込ませることが出来なくなっている。脇目も振らずに没頭すべき場面で没頭出来ないのは、私の「貴顕」じみた性質の帰結であるという訳ではない。仕事でも私生活でも、物事に没頭する局面は多々ある。だが、小説という虚構の世界の建設に没頭し難い障りを覚えるのは、私の内なる欲望が「小説」の創造という夢想に捧げられていない為だろうか。

 出力された成果の巧拙は問わず、例えば本を読んで自分なりの考えや感想を認めるということならば、幾らでも筆は運ぶというのに、小説の創作は長続きしない。単に分量の問題なのだろうか? もっと言えば、私の小説は分析と説明で出来上がっているようなところがあって、それ自体が直ちに芸術作品としての瑕疵になるとは断言し難いが、それならば小説ではなくても構わないのではないか、という見解は否みようがない。

 議論というのは空疎なもので、それ自体は行動の齎す価値に遠く及ばない。理窟を捏ねている暇があったら、さっさと行動して結果を明確にするに越したことはない。これは確かに真理であるが、一方で我々人類は果てしなく続く無益な「おしゃべり」に興じる愉悦も知っている。我々は事物を様々な角度から捉え、互いの意見を共有する快楽的な営為を何千年も繰り返してきた。批評という行為は、こうした無益な「おしゃべり」の厚顔な典型であり、他人の作品を彼是と好き勝手に論じて決め付けたり誤読したりする下世話な振舞いが、厳しい創造の実践に比べて遥かに軽薄で不毛な行動であることは歴然としている。しかしながら、広義の「議論の快楽」は人間の心に励ましと慰めを与える。共通の関心に就いて親しく語り合う歓びは時に、行動の歓びを遥かに超越する。勿論、これは個人の趣味の問題で、寡黙な行動家は無用の議論を潔く排斥するだろう。それが彼の魂の形に相応しいからだ。しかし私は黙々と一つの行動に打ち込むだけで充たされる性質の人間だろうか。自分の意見を何も語らずに、一切を具体的な行動の裡に充塡して安らぐことが可能だろうか。

アドルフ (光文社古典新訳文庫)

アドルフ (光文社古典新訳文庫)