サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(批評家の仕事)

*過日、たまたま青空文庫夏目漱石の「作物の批評」という古めかしい文章を読んだ。

 漱石の文章は今から百年前に綴られたもので、しかも英文学と漢籍の分厚い素養がベースになっているから、現代の平均的日本人の眼には、如何にも堅苦しく難解な措辞のように映じ易い。しかし粘り強く向き合って読めば、その跳ねるような機智に魅惑される。その見解も現代に充分通用する真摯な説得力を備えている。

 漱石は「作物の批評」の中で、批評家と芸術家の関係を教師と生徒の関係に譬えて論じている。そして「評家」が単一の規矩で多様な作品を論じる偏狭な態度に、控えめな論難を加えている。

 他人の行動に安全な外野席から声高な批評を加える人間は「評論家」と罵られ蔑まれる傾向にある。この風潮は文学に限らず、社会のあらゆる側面で見受けられる心理的な慣習である。事実、他人の粗捜しばかり重ねて自分では決して手を汚そうとしない卑怯な精神が、社会的な支持や信頼を集めることは有り得ない。何故なら、単なる論難と問責だけでは、この世界は少しも良くならないし、日々の責務も進捗していかないからだ。その意味では、作者にとって評家などという存在は目障りでしかない。

 だが、作者は誠実な理解を注いでくれる読者に餓えているもので、芸術的な創造自体は、作者の孤独な産屋うぶやの中で育まれるとしても、その孤独な営為が最終的に求めているものは他者の共感ではないだろうか。理解されず、享受されない表現は寂寥に苦しむ。誰かが深甚な理解を注いでやらない限り、その表現は時に枯死の危険に見舞われるだろう。

 批評家という存在に若しも意義があるとすれば、それは他の誰よりも深く、他者の創造した「作物」に理解を授けることではないだろうか。表層的な印象に基づいて、作物の良し悪しを簡単に断定するだけならば、批評家の存在に価値はない。読者というものは我儘な存在で、気が向けば頁を捲るし、忙しければ表紙の埃を払おうともしない。それは読者の罪ではない。誰しも書物を読むだけで自分の生活を成り立たせることが出来る訳ではない。生計を立てる為に労働へ勤しみ、家事をこなして、育児や介護に齷齪していれば、時間は幾らでも迅速に消費されていくもので、捻出した寸暇を悉く読書に充てようという奇特な人物も滅多にいない。娯楽は他に幾らでもあり、個人の嗜好は実に様々であるからだ。

 何らかの絶対的で偏狭な審美的基準を独自に樹立し、その唯一の規矩を以て、数多の書籍を一律に論じ、審判を下すというだけならば、それは単なる肥大したエゴイズムの症状で、作者への敬意はなく、旺盛な自己顕示欲が炸裂しているだけに過ぎない。重要なのは、他者に向かって深甚で懇切な理解を行き届かせることであり、それだけが批評家の為し得る社会的な贈与として認められる。表面的な理解と、断定的な批判、それを評家の任務と捉えるのは傲慢な錯誤であって、重要なのは優れた眼力を磨くことだ。その為には日々着実に勉強を積み重ね、思考と実践を鍛えていくという世間一般の研鑽の過程を踏まえる以外に途はない。それはどんな業界でも変わらないし、仕事であろうとなかろうと同じことだ。

 私が中断していた三島由紀夫の作品に関する感想文の執筆計画に再び着手したのは、そういう基本的な営為に回帰して、いわば「理解の創造」とでも称すべき理想を実現したいと考えたからだ。「理解」という原点に立ち戻りたいと欲したからだ。結局、私は理解されるよりも理解したいたちの人間なのかも知れない。私は私の理解力を錬磨したい。それは他者を愛することに似ている。