サラダ坊主日記

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裁かれる天使、その透明な孤立 三島由紀夫「殉教」

 三島由紀夫の短篇小説「殉教」(『殉教』新潮文庫)に就いて書く。

 特定のカリスマに率いられた邪悪な少年の一群によって行われる陰鬱な制裁を描いた三島の作品と言えば、直ちに有名な「午後の曳航」が思い浮かぶ。二等航海士の塚崎竜二が、洋上の英雄としての孤独な栄光を自ら抛ち、陸に戻って通俗的な「父親」の権威と安逸に溺れる生活を選んだことを咎として、少年たちが毒物による私刑を試みる「午後の曳航」では、少年たちの断罪の対象は成熟した男性の「堕落」であった。華々しい夭折の栄光、悲劇的な光輝からの自主的な失墜が、少年たちの眼には許し難い罪悪として映じたのである。これは「老醜」を最悪の堕落と看做す三島の審美的な論理を、その最も保守的な立場から過激な仕方で現実化する物語であると言える。

 しかし、この「殉教」において描かれる制裁の物語は「午後の曳航」とは異質な風合いを備えている。邪悪で臆病な少年たちが私刑の対象に選ぶのは、風変わりで孤独な転校生の少年であり、そこには堕落した英雄への憤怒という情念の論理は介在していない。彼は少年たちの間で珍重され、畠山の絶大な権威の源泉となっている「禁書」を窃盗した罪状を背負っているが、それ自体は制裁の直接的な引鉄ではない。彼が処刑の対象に選ばれた表向きの理由は「生意気であること」だけなのだ。

 亘理という名の罪人は、一体如何なる理由で「魔王」の一群に命を狙われたのか。その謎を解明する為には、亘理という少年の造形に着目しなければならない。彼が周囲から迫害される理由に就いては、次の記述が最も簡明な解説の役目を果たしている。

 彼は入学匇々そうそう迫害された。少年というものが彼らの年齢特有の脆弱さを意識して反対の「粗雑さ」に憧れる傾向を、亘理は冷眼視しているように思われるのだった。彼はむしろ脆弱さを守ろうとしていた。自分自身であろうとする青年は青年同士の間で尊敬される。しかし自分自身であろうとする少年は少年たちの迫害に会うのである。少年は一刻でも他の何物かであろうと努力すべきであった。

 亘理は友人たちにたちのわるいいたずらをされると、ふと青く晴れた空を見上げるくせがあった。この癖もからかわれる種の一つになった。「あいつはいじめられるとキリストみたいに空をじっと見上げるのだよ」――と小悪魔の中でも一番手に負えないMが言った。「そうするとあいつの鼻が少し上向きになるだろう。そこであいつの鼻の穴を僕はすっかり見てしまうんだ。あんまり丁寧に洟をかむので、あいつの鼻の穴は縁のところがうすぼんやり薔薇いろをしているよ」

 ――もとより「プルターク英雄伝」は亘理が見ることを禁ぜられた。(「殉教」『殉教』新潮文庫 pp.71-72)

 「キリストみたいに空をじっと見上げる」亘理の習慣は、その後も繰り返し言及され、強調されている。こうした「空への憧れ」を「地上の論理から解放されることへの欲望」であると読み替えることが可能ならば、亘理という少年の造形は、三島の作品に幾度も登場する「天使」の観念から深甚な影響を蒙っていると言えるのではないだろうか。

 畠山が突然合図の手を高くあげた。目をけんめいに閉じていた。

 縄が上った。

 少年たちは夥しい鳩の羽搏きと、おどろくほど高いところにある亘理の美しい顔の輝きに怖れをなして、もはやこの怖ろしい殺人の現場にいたたまれずに、思い思いの方向から疎林を一散に逃げ出した。

 かれらはすばらしい快活な速度で駈けた。

 かれらの幼い胸は人殺しをしたという誇りでまだ弾んでいる。

 三十分もたって、皆は申合せたように又そろそろと疎林の中へ入ってきて、肩をすりよせおそるおそる大松の枝をさしのぞいた。

 縄がただ揺れていた。縊死者の姿はどこにも見えなかった。(「殉教」『殉教』新潮文庫 p.86)

 縊死者の不在が、単なる首吊りの物理的な失敗によるものであるならば、この奇態な後味は直ちに霧消する。牽強付会を承知の上で敢て「天使」の観念を適用するならば、恐らく亘理は天空へ飛翔することで醜悪な死骸の姿を免かれたのである。これらの描写を総合すれば、次のようなテーゼが導き出されるだろう。即ち「地上に降り立った天使は必ず迫害を受ける」という命題である。

 亘理に向けられた周囲の尽きせぬ悪意は、彼が素朴な少年の流儀に叛いて「認識」或いは「冷眼視」の立場の裡に逼塞していたことで喚起されたものではないかと推察される。亘理は地上的な論理、肉体的な論理、不透明な情念の論理を峻拒し、自己の脆弱さを堅持している。それは地上の論理に骨の髄まで蝕まれた人々にとっては忌まわしい挑発であり、腹立たしい侮蔑である。

 「午後の曳航」が「夭折」と「老醜」との間で争われた判決であるとするならば、この「殉教」は「行為」と「認識」との間で争われた判決であると言えるだろう。そして聊か自伝的な風合いを帯びた「殉教」の裁きの天秤はやや、「認識」の側へ傾いているように見受けられる。無論、三島の実存的な天秤は終生、二つの主張の間で危うい均衡を保ち続けたのであり、その判例は複雑な矛盾の軌跡を作品の裡に刻印している。最終的に下された厳粛な判決は、三島に対して野蛮な「行為」への性急な帰結を命じた。彼は天使の翼を翻して地上を辞去する代わりに、あの「憂国」のように凄惨な死骸を衆目に曝したのである。

殉教 (新潮文庫)

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午後の曳航 (新潮文庫)

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