サラダ坊主日記

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大衆の秘められた欲望の特質 三島由紀夫「毒薬の社会的効用について」

 三島由紀夫の短篇小説「毒薬の社会的効用について」(『殉教』新潮文庫)に就いて書く。

 この聊か戯画的な筆致で綴られた奇態な小説は、作家自身の迂遠な履歴書、夥しい粉飾と暗喩に鎧われた皮肉な肖像画を想わせる一篇である。その核心には無論、表題に掲げられた「毒薬」という暗喩が意味深長な趣を備えて鎮座している。この「毒薬」という暗喩は一体、何を意味しているのだろうか?

 動物たちと同様に、人間共もまた、彼の懐の毒薬を嗅ぎ当てたのだ。金高を嗅ぎ当てる人間独特の習性からしてそれは造作もないことではないか? そして彼等は、価値の低落した紙幣よりも、更に痛切に、更に貪欲に、毒薬を欲するのだ。彼の殺意が彼等を魅了するのだ。彼等は毒殺されたいのだ。そのために彼等の社会へ、彼はあらゆる暗黙の媚態で迎えられようとしているのだ!(「毒薬の社会的効用について」『殉教』新潮文庫 p.176)

 要するに作者は自身の奇怪な「成功」の秘密に就いて、捻くれた穿鑿を試みているのではないだろうか。三島由紀夫という作家の文業が、その露骨な反時代性にも拘らず、戦後の日本社会に歓呼を以て受け容れられた「逆説」の仕組みを解剖しようと企てているのではないか?

 三島の作品には総じて、通俗的な幸福というものが欠落している。或る純朴な男女の完璧な恋愛を描いた有名な「潮騒」は例外的な部類に属すると言うべきで、基本的に彼の小説は反時代的な欲望や危険な野心で隅々まで埋め尽くされている。彼の作品には絶えざる日常性の反復への忌まわしい嫌悪が滲み、あらゆる秩序を粉砕する雷撃のような椿事への切迫した期待が充満している。それは恐らく、戦後社会が徐々に封殺していった或る秘められた衝迫、抛棄された交戦権を通じて購われた経済的繁栄の瘡蓋に蔽い隠された野蛮な欲望に訴え掛ける力を有していただろう。

 一九四八年の春、X氏は彼自身の悪時代の中にいた。第二次世界大戦後の神経病的な混乱が、いわば出血はとまりかけても化膿のはじまった一時期だ。一九四八年という年を思い出すと彼は今でも背中がかゆくなるように厭わしく感じるのだ。なぜといえば、あの時代には本当の足は義足にみせかける必要があり、あくびをしたら今のは悲鳴であると弁明する必要があり、薔薇にはかならず小便をかけねばならず、(なぜなら悪臭を放たない薔薇は造花とまちがえられる危険があるから)、自動車が来たら轢かれる真似をせねばならず、(なぜなら犠牲者になることは彼自身に背徳的、見物衆には道徳的満足をもたらすから)、合言葉にこたえるに合言葉を以てする必要があり、青年が二人寄れば真昼間から口角泡を飛ばしてかの「観念の猥談」に耽るのであったから。(まことに猥褻さの本質は何ものでもない。「過剰」ということに他ならないのだ)(「毒薬の社会的効用について」『殉教』新潮文庫 p.163)

 恐らく一九四八年の日本には、本物の戦争を知る人々が大勢犇めき合っていただろう。戦争の艱難は人々の根源的な紐帯であり、硝煙の余韻と爆撃の残響を身に纏った敗残の英雄たちは、或る独特な社会的権威を備えていたに違いない。誰よりも夭折の栄光に憧れていた三島にとって、彼らの存在は重苦しい痼疾のように感じられただろう。彼らに比べれば、自分が「贋物」であることは火を見るより明らかだったからである。戦争の生々しい残滓が化膿を始めた時代、戦場に往かなかった人間の真新しい希望は頻繁に軽侮されたのではないか。義足という勲章を持たない人間が英雄に憧れるのは、馬鹿げた詐称に過ぎなかっただろう。その時代、三島の悲劇的な欲望は絶えず「贋物」の誹謗を免かれ得なかったのである。

 彼は逃亡した。しかしX氏の逃げ方はまちがっていた。彼は生きようとしたのだった。これは叛逆罪に相当する。

 丸ビルを見たまえ、あそこには生活が渦巻いている、と彼は信じた。乳母車やラッシュ・アワーの地下鉄やタイプライターの騒音や日曜日毎に干される派手な蒲団や月給袋やカーボン・ペイパアや上役の媒妁であげられる結婚式や、そうしたものにこそ生活があるという有りふれた謬見が彼をとらえた。X氏もまた時代病の逆症状を呈していたのだ。たとえていえば、彼の症状は、ベートーベンをきいてあっけらかんとしていながら、ラジオ体操の音楽(一九四八年当時、すでにそんなものはなかったが)をきくと涙を流すという調子だ。彼は「結婚」という言葉をおそれていた。この言葉を聞くと彼は癲癇をおこすのだった。この言葉には、百万長者の名前のような、荘厳と醜悪と美しさと厭わしさがあったのである。(「毒薬の社会的効用について」『殉教』新潮文庫 p.164)

 終戦直後の世相において、平穏無事の「日常性」は特権的な輝きを備えていたに違いない。それは貴重な財貨であり、崇高な祈祷の対象であった。X氏が「結婚」という言葉に恍惚と恐懼を覚えたのは、それが「日常性」の極限的な形態を意味したからではないかと思われる。しかし復員した人々は、つまり「本物」の英雄たちは、そのような「日常性」の欺瞞的な性質を鋭く見抜いていたのではないだろうか。破滅的な栄光の美しさに馴染んだ魂にとって、無際限な経済的繁栄の風景は途轍も無い虚偽に見えたのではないか。

 三島の文学的成功は、抑圧された「戦争」の風景に染み込んでいた背徳的な欲望を虚構の裡に甦らせることで獲得されたのではないかと思われる。彼の仕込んだ「毒薬」は、平穏な日常と経済的繁栄の裏面に隠匿された野蛮な欲望に対して「炸裂」を教唆する。「毒殺されたいという欲望」(p.177)に向かって、悲劇的なヴィジョンを提示し、巧みに感応させる。そうした特異な技術の恩恵に与ることで、皮肉にも彼は最も悲劇から隔絶した世俗的な成功と利得を手に入れたのである。老境に至ったX氏の服毒は、三島自身の末期を予見するように暗示的である。

殉教 (新潮文庫)

殉教 (新潮文庫)