サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

破滅の弔鐘を待ち侘びて 三島由紀夫「急停車」

 三島由紀夫の短篇小説「急停車」(『殉教』新潮文庫)に就いて書く。

 先日感想文をしたためた「毒薬の社会的効用について」同様、この作品にもまた、作者である三島由紀夫の自画像が密かに織り込まれているように見える。戦時下に過ごした特異な青春期の記憶、それは絶えず三島の霊魂を呪縛し、あらゆる価値観や思想の基層を成す重要な光景として息衝き続けていたのだろう。

 戦時下という特殊な季節は、遠からず滅亡の弔鐘が鳴り響いて、眼前の生活の平凡な風景を一挙に潰滅させ、それまでの主要な通念と黴の生えた旧習を残らず破砕するに違いないという確信を人々の精神に齎す。そのとき、四囲の現実は持ち前の堅牢な外観を失い、如何なる約束も規則も信仰も、束の間の幻影の如く繊弱な衰微を示すだろう。確乎たる未来を期待し得ないという不動の条件が、若者たちに無際限の自由を授け、甘美な頽落が猖獗を極める。一瞬の後にはもう跡形もなく消え去っているかも知れない浮薄な現実の裡に棲んで、無意味な遊戯以外の如何なる行為に励めばいいと言うのか? 永遠に繰り返される単調な日課の牙城に、三島は生理的な嫌悪と度し難い倦怠を宿していたに違いない。彼は破滅的な事件の到来を絶えず待ち侘びる。一切合切を転覆する突拍子もない事件への期待と予覚だけが、彼の精神に清冽な活気を宿し、陰鬱な旧弊の呪縛を鮮やかにほどくのである。

『結局甘美だったのは』と杉雄は、後頭部を組んだ手の上にのせ、手の甲にはアメリカの室内装飾雑誌のアート紙の表紙の冷たさを感じながら、考えた。『……一瞬ののち、でなくても三十分のちには、存在がのこらずその相貌を変えるかもしれないと常住感じていたあの感情の緊張だった。一刻のちには死ぬかもしれない。しかも今は健康で若くて全的に生きている。こう感じることの、目くるめくような感じは、何て甘かったろう! あれはまるで阿片だ。悪習だ。一度あの味を知ると、ほかのあらゆる生活が耐えがたくなってしまうんだ』(「急停車」『殉教』新潮文庫 p.196)

 杉雄が求めているのは強烈な「生」の実感であり、無限に持続すると思われる堅牢な日常性は、そうした実感を褪色させ麻痺させる呪術的な効能を宿している。果てしなく続く永生の境涯は、生きることの貴重な価値を極限まで没落させ、有限であるが故の特別で崇高な光輝を余さず排除してしまうだろう。生死の強烈で明瞭な「落差」が齎す眩暈のような歓喜は、生きることの価値、有限の存在であることの価値をはっきりと認識した者だけに与えられる素晴らしい陶酔の経験である。

 大小高低の、出来かけの、また出来上りの電気スタンド。……さまざまな部屋と、その部屋の存在と運命を共にすべき存在。……こういうものに手を貸して暮しを立てているのは矛盾である。永続性におびやかされながら、永続性に手を貸す。自分の周囲の存在の壁を呪いながら、その壁の建増しに手を貸す。……杉雄は戦争中、家人の疎開のために要らなくなった箪笥を、道ばたに出して投売りをしているのを見た。ひどく廉かったが、誰も買わなかった。

『あれは全く箪笥だった』と杉雄は思った。

『明日は灰になるかもしれないが、むしろ、明日は灰になることがわかっていただけに、あれは正真正銘の箪笥だった。箪笥は道ばたの筵の上で初夏の陽を浴びていた。桐の柾目は美しく落着いて、この箪笥の純良な原料をはっきりと日ざしのなかに誇示していた。ああいう明瞭な物質を人間は好かないのだ。あれは生活の中に置くには危険すぎるんだ。もっとあいまいな、図太い存在、一個の永続性のある家具……そういうものに対してだけ世間は金を払うらしい』(「急停車」『殉教』新潮文庫 pp.197-198)

 こうした記述は、例えば傑作の誉れ高い「金閣寺」における次のような箇所と、明確に照応しているのではないか。

 私を焼き亡ぼす火は金閣をも焼き亡ぼすだろうという考えは、私をほとんど酔わせたのである。同じ禍い、同じ不吉な火の運命の下で、金閣と私の住む世界は同一の次元に属することになった。私の脆い醜い肉体と同じく、金閣は硬いながら、燃えやすい炭素の肉体を持っていた。そう思うと、時あって、逃走する賊が高貴な宝石を嚥み込んで隠匿するように、私の肉のなか、私の組織のなかに、金閣を隠し持って逃げのびることもできるような気がした。(『金閣寺新潮文庫 pp.59-60)

 一貫して指摘し得ることは、永続性を怨敵と看做す三島の美学的な実存の固有性である。彼が望むのは浮動する目紛しい現実であり、それだけが強烈な実存的歓喜を涵養する。交通事故に遭遇した杉雄が俄かに奇態な活気を帯びるのは、それが頑丈に見える日常的現実の脆弱な性質を鋭く告示するからだ。破滅の予感は、人間の精神に驚嘆すべき新鮮な意欲を燃え上がらせる。それは一回的で奇蹟的な「行為」に向かって人々の魂を駆り立て、躍動させる。「金閣寺」において、三島が絶対的な「美」を観照する静的な受動性の境涯に対置したのは、破滅と隣接した「行為」であった。但し、三島における「行為」の定義は、日常の孕んでいる曖昧な永続性とは異質な代物である。彼の逆説的な信念は、日常を超越することで絶対的な「永遠」に到達するという奇怪な論理に支えられていた。単純な行為は、反復される日常性の領域に向かって容易く失墜する。彼が希求したのは永久に顕彰される超越的な「行為」であり、それは無限に循環する「仏教的な時間」の輪廻を途絶させる果敢な「跳躍」でなければならなかったのだ。

殉教 (新潮文庫)

殉教 (新潮文庫)