サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

美の仮構 三島由紀夫「スタア」

 三島由紀夫の短篇小説「スタア」(『殉教』新潮文庫)に就いて書く。

 この巧緻な佳品は『殉教』に収録された他の小説と同様に、三島的な主題が極めて鮮明な姿形で象嵌されている。「演劇的時間=日常的時間」及び「夭折=老醜」の対義的構図が、全篇を貫く主要な旋律を成しているのである。絶大な人気と美貌を誇る有能な役者を主人公に据えて、作者は「日常の超克」という重要且つ困難な課題の明暗を巧みに剔抉している。

 「演劇的時間」は、有り触れた日常の索漠たる実相からの離陸を必ず含んでいる。それは眼前の現実を構成する退屈な諸条件を解除し、更新する為の手続きである。言い換えれば、我々の社会や日常が当たり前のように備えている一つの基底的な理念を震撼する為の果敢な攻撃なのだ。

 我々の社会は「永続性」という素朴な観念を絶対的な摂理として信奉することに慣れ親しんでいる。何れ必ず死すべき我が身であることを揺るぎない知識として万人が学びながら、活発な「生」の渦中においては、その真理が確実に失念され閑却されるという端的な事実は、そうした「永続性」の旗幟の堅牢な権威を証明するものである。我々は確実な滅亡を予感しながら、半ば自動的に、その予感を蹂躙して無限の存続という不可能な理念に酔い痴れる。精神的な麻痺は着実に亢進し、やがて我々の意識は「永生」の錯覚に魂の深層さえも蝕まれてしまう。言い換えれば、我々にとって「死」という観念は明らかに社会的な教育の産物なのである。死を懼れる赤児がいないように、我々の生命そのものは「生き延びること」以外の事柄に関心を持たず、滅亡に就いて行き届いた思索を累積することもしない。

 永続性の理念に呪縛された現実、それが「日常性」という観念の本質である。滅びることを忘れた生存、それが「日常性」という枠組みの堅固な礎石である。三島の苛立ちは、こうした「滅亡の失念」という状況によって惹起される。彼は「終わりなき日常」に対して深刻な敵意を燃え上がらせている。「演劇的時間」への執着は、それが「日常的時間」と異なる性質を、つまり明確な「区切り」と「推移」を備えているからであろうと推察される。「演劇的時間」は自らの内部に「物語」という運動を宿している。「物語」には必ず「始まり」と「終わり」が備わっており、両端を繋ぐ「推移」には躍動的な変化が刻まれている。言い換えれば「演劇的時間」のダイナミズムは「始まり」と「終わり」という二つの明確な区切りによって生じる「凝縮」の帰結なのである。それに比べて「永続性」という観念の支配を前提とした、或る通俗的な無感覚は、明確な「起源」と「終焉」の境界線を持たない為に無際限に間延びして、人間の魂を凄まじい倦怠と荒廃の奥底へ突き落としてしまう。

 言い換えれば、私たちは否が応でも或る限られた「物語」の内部に包摂されているにも拘らず、その端的な真実を極めて容易に失念してしまう性向を有しているのである。その失念を促進する強力な装置が「日常性」という観念であることは論を俟たない。逆の角度から眺めれば、我々は索漠たる無表情な現実に「物語」の化粧を施さない限り、必ず堪え難い倦怠の深みへ溺れてしまうのだ。索漠たる現実への抵抗を企図して「物語」という装置を存分に活用すること、それが三島的な文学の基礎的な技法である。

 「演劇的時間」は原理的に、必ず「起源」と「終焉」という二つの「切断」の介入を要求する。その「切断」が、日常的な時間、或いは「金閣寺」で用いられた表現を借りるならば「仏教的な時間」の無味乾燥な反復を停止させ、或る特権的な「エピファニー」(epiphany)の瞬間を創り出して、精神の深刻な荒廃と飢渇を癒やすのである。

 こうして又しても、仮構の時間が流れだす。自分が写されており、フィルムがまわっている間の時間というものは、今では僕にとって、一日のうちに何十回かある時間だが、そこの部分の時間だけが清冽な渓流のように流れていて、僕はその滑らかな時間のなかを泳ぐことができる。そこで体に浮力が与えられ、同じ地面を歩いてもただ歩くのとはちがう。自分が一定のリズムを持った時間に化身してしまい、一つ一つ予定の行動を手がけてゆくのが、その行動が水の中の藻のようにむこうから流れてきて、僕の体にまつわった上、流れ去ってゆくかのようだ。こんな時間に比べたら、人生の時間なんかは、古びたすりきれた帯にすぎないだろう。(「スタア」『殉教』新潮文庫 p.230)

 彼は「物語」の中で生きることに特別な恩寵を見出している。普段、我々の眼前には雑駁な現実の断片が無原則な仕方で浮遊しているに過ぎない。その脈絡を欠いた破片の群れを、或る統一的な視座(例えば「運命」のような超越性を帯びた物語)に依拠して一条の光芒のように結び合わせたいという根強い願望が、三島の胸底には絶えず伏流しているように見受けられる。このプラトニックな本質主義的性向は、三島の文業を貫く最も基礎的な規範である。彼は己の「生」に統一的な視野と本質的な意義を恢復することに数多の情熱と労力を捧げた(「美しい星」における大杉重一郎の「生」が「円盤」という一つの赫奕とした超越性の権威によって輝き始めるように)。

 プラトニズムは「本質」と「現象」の二元論的構図を基本的な特徴として備える。そして「本質」を優先し「現象」を「本質の不完全な反映」として劣位に配することが、その思想的原理の根幹を成している。その意味では「脚本」という事前に定められた「本質」に基づいて「演技」という現象を繰り返し再生する俳優の技能は、プラトニックな特性を濃密に孕んでいると看做すことが出来る。「本質」への接近は直ちに「現象」の精緻な鍛造を意味し、日常的な時間の代わりに演劇的なエピファニーの到来を招き寄せる。若しも「現象」に埋没して生きることに如何なる難儀も感じないのならば、わざわざ誰も「演技」と「仮構」の世界へ踏み込もうとは考えないだろう。「現象」の狡猾な反映でありながら、所謂「仮構」は「現象」そのものの単なる近似や転写を欲していない。それは雑駁な現実の濃密な凝縮であり、煮詰められた「本質」の純粋な抽出の作業なのである。

殉教 (新潮文庫)

殉教 (新潮文庫)