サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「国家」に関する覚書 10

 久々にプラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)の続きを読んでいる。

 プラトンは「哲学的素質」の特権的な価値と優越に関して、世俗的な誤解を排除する為に懇切な弁明を繰り返し試みている。その弁明を支える動機の淵源に、刑死した師父ソクラテスの面影が鎮座していることは概ね確実だろう。彼は哲学者に固有の美徳が、如何に深刻な社会的無理解に覆われ、徹底的に「不当な迫害」の毒牙に曝されているかを嘆き、その誤った蔑視を覆さない限り、国家が健全な理想的状態に達することは不可能であると幾度も強調している。

 同時にプラトンは、哲学的素質の適切な発芽と伸長が如何に困難な奇蹟であるかという悲観的事実に就いても、直視を憚ろうとはしていない。但し、困難であることと不可能であることとの微妙な区分を蔑ろにする知的怠慢に陥ることは、彼の信条に合致するものではない。理想を厳密に語るということ、この根源的な作法は、プラトンの構築した壮麗な哲学的体系の本質を形作る重要な特徴である。空理空論という悪しざまな誹謗を懼れず、粘り強い反駁と推論を通じて、地上の雑駁な現実に抗しながら幻想的な正しさを倦むことなく語り続けること、この果敢な情熱の介在を捨象してしまえば、プラトンの独創性を称賛することは最早不可能となるだろう。

 プラトンの議論を要約する上で最も重要なことは「実相=仮象」の二元論的な峻別を適切に理解する点に存する。この基礎的な図式を踏まえなければ、彼の議論を理解することは一挙に覚束なくなる。更に重要なことは、この「実相=仮象」という図式を通俗的な「現実=幻想」の二元論的対比と混同しないように注意を払うことである。極端な言い方をすれば、プラトンの独創性は一般的な「現実=幻想」の区分における定義を反転させた点に存すると看做して差し支えない。

 存在しないものの存在を信じること、言い換えれば感覚によって確証されない対象の実在を信じること、これは一般に「妄想」或いは「信念」と呼ばれる精神的作用である。我々は客観的で実証的な手段を通じて確かめられた認識を「事実」或いは「正しさ」と定義する科学的な慣習に親しんでいる。如何なる観測手段によっても捉えることの出来ない事物は、一般的に「存在しないもの」の範疇に組み込まれる。何らかの方法で、その実在が検知された場合には、当該の事物は「存在するもの」の範疇に組み込まれる。

 こうした「存在の認知」に関する手続きにおいて、プラトンは肉体的感覚の明証性を露骨に冷遇している。彼は肉体的感覚を通じて捉えられた現象的な認識を悉く「仮象」の範疇に押し込み、それらの認識を「実相=真理」から隔てられた不完全な知識として貶下する。そして「仮象」に囚われている限り、人間は「実相=真理」の把握へ到達することが出来ないと結論する。つまり、彼は感覚によって確証される事物を「仮象」と看做し、感覚によって捉え難い対象を「実相」と看做す、逆説的な思索の様式を採択しているのである。

 抽象的なものを「実在」と看做し、具象的なものを「幻想」として斥けるプラトンの特異な思考は、世界を感覚的な多様性から切り離し、感覚器の抱え込んでいる避け難い誤作動を難詰し、感覚の彼方へ思惟によって到達しようとする已み難い衝迫に支配されている。無論、我々の肉体に備わっている感官が、事物の絶対的な真実性と結び付いている証拠は存在しない。我々は止むを得ず所与の認識的手段を通じて、事物の存在を認知しているのであり、人間に与えられた感官の機能的な精度が極めて高等なものであったとしても、その事実は我々の認識の絶対性を立証しない。端的に言って、我々の備えている感官が様々な事情(外在的なものであれ、内在的なものであれ)によって、その健全な働きを阻害され得るものであることは、経験的に知られた事実である。この感官の不完全な相対性という事実は、感覚的な観察それ自体を通じて把握され得る自明の認識であると言える。そうであるならば、我々は感官の働きに依存しながら真理に到達しようと試みる困難な労役を免かれなければならない。感官への依存は不可避的に、真理への到達を妨礙する構造的な条件として作用するからである。

 プラトンの企図した哲学的計画、或いはその独創的野心は、感覚的認識に附随する先天的な限界を超克することに捧げられたものであると定義し得る。プラトンの人工的な空理空論は、素朴な経験論を支持する凡俗の立場から眺めれば、突拍子もない秘教であり、不可解な情熱の発露である。感覚の彼岸を探究しようとする熱烈な意志は、万人の共有する普遍的な性向ではない。寧ろ主観的な感覚の明証性に留まり、その無媒介的な直接性に安住する態度の方が、一般的な傾向であると言えるだろう。けれども、敢えて感覚的明証性の裡に留まろうとする態度もまた、明確な方法論と覚悟を要するのが実情であり、現にそうした感覚の「此岸」に固執することで恣意的な妄想を排除しようと試みたエピクロスは、例えば「死」の不安に囚われることの不合理を説いたが、彼の極端な経験論を受け容れることは誰にとっても容易な業ではない。プラトンの卓越した抽象性も、エピクロスの徹底的な具象性も、共に「認識」の妥当性を極限まで考究する意識的な方法論の所産なのである。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)