サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(プラトンに関する断片)

プラトンの哲学は、感覚的な認識の彼方に存在する事物の「実相」(idea)を把握することに至高の意義を見出した。それは感覚によって得られる諸々の認識が、宿命的な不完全さを内包している為に、決して事物の「実相」に到達し得ない構造的限界を孕んでいると判定されるからである。

 感官による認識は、感官の構造の枠組みを超越することが出来ない。或る事物が、視覚の裡に如何なる形態の映像を結ぶかという問題は、事物の実相に規定されるのではなく、視覚が事物との間に結んでいる限定的な照応関係によって左右される。形態に関しても色彩に関しても、こうした関係性の原理は変わらない。或る波長の光線が「青」に見えたり「赤」に見えたりするのは「実相」の側の都合ではなく、それを把握する視覚的感官に固有の機構が決定する問題である。従って「赤」という視覚的認識を、事物の「実相」或いは「本質」に属する情報として受け容れるのは、避け難い根本的謬見なのだ。

 感覚によって形成される「仮象」が、事物の「実相」との間に何らかの相対的な照応関係を結んでいることは事実だとしても、「仮象」そのものを「実相」の直接的な把握として定義することは不可能である。両者の結合は恣意的なものであり、恣意的であることは感覚にとって何ら不都合な事態ではない。恐らく我々の備えている感官は絶対的な「真理」や「実相」を捉えることに重きを置いて形成されてはいない。それは我々の生存の維持に便宜を図る為の手段の一つであり、その本分は「実相」を捉えることではなく、外界から何らかの有益な情報を抽出することに存している。事物の全体を捉えず、重要な側面だけを切り取って検知するのが感官の特徴であることは、眼球が匂いを嗅がず、鼓膜が甘みや苦みを感じないことを鑑みれば明瞭な事実である。従って、感覚の構造的な限界に不満を覚え、その彼方に位置する「実相」の直截な把握を企てるプラトンの情熱は、見方によっては常軌を逸していると言える。

 だが、こうした異様な情熱こそ「知性」という一つの機能、それ自体が巨大な欲望を孕んだ人間的機能の本質に関わるものであると言うべきではないだろうか。プラトンは感覚という曖昧な認識的機能を排除して、厳密な「知」を構築することに血道を上げた。その為に彼は「合理」という孤絶した規範を樹立したのである。

国家〈上〉 (岩波文庫)

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国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)