サラダ坊主日記

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「無垢」のフィルター、恩寵としての「情死」 三島由紀夫「岬にての物語」

 三島由紀夫の短篇小説「岬にての物語」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。

 幼い少年の視線を通じて描かれた、この悲劇的な情死の物語は、例えば晩年の傑作「憂国」のように、当事者である若い男女に焦点を合わせていない。専ら少年の眼に映る風景が、幼さゆえの無垢と無智の為に幻想的な衣裳を被せられて、綿々と綴られていく。しかも、その文体は後年の引き締まった論理的圧縮の代わりに、三島の若年期に特有の、抒情的な贅言を塗り重ねる油絵の風情を備えていて、作品を支配する夢幻の雰囲気を一際強めているように感じられる。少年の幼気な心情と、間接的に暗示される惨劇との間に、途方もない断絶と落差が穿たれていることも、非現実的な色彩の氾濫という印象を与える要因として働いている。

 美しく若い一組の男女が、余人の眼には定かならぬ理由(それは読者に対して語られず、語り手である少年にも明晰には理解されない)に強いられて、断崖から静謐な汀へ飛び込み、情死するという主題は、三島の豊饒な文業を徴する限り、作者にとって最も重要なオブセッションであったのだろうと推察される。少年の眼を通して語られている所為か、情死する男女の間には「憂国」のような噎せ返るほどの官能的臭気は微塵も滲んでおらず、二人はまるで明朗な御伽噺の主人公のように、生々しい肉体的な質感を欠いた澄明な影絵の如き存在として描かれている。

 三島の作品における「情死」は、紛れもない「恩寵」として、飽くなき崇拝と憧憬の対象に推戴されている。美しさの絶頂において時の流れを止めること、それは虚無的な「時間」の圧政に抗う最も崇高な方法として定義されており、そうした考え方は晩年の「天人五衰」における本多繁邦の重苦しい述懐にまで引き継がれている。恐らく三島にとっては芸術的創造という営為さえも、無機質な時間の遷移に対する抵抗の役割を担っていたのだろう。時空を限定することで生み出される、凝縮された「時間」の結節点としての「作品」は、無限に持続する「時間」の廃絶に向けて投じられた賭け金なのである。

 この凝縮された「時間」の結節点は、別の表現を用いるならば「宿命」であり、或る瞬間的な現在の特権化を含意している。「宿命」とは予告された意味の顕現、事前に定められた掟の介在であり、それに捕縛された人間は、無意味な「時間」を免かれて何らかの「物語」の領域へ強制的に編入される。彼は「意味」を持たない無際限な継起、偶然性だけで織り上げられた虚無の「時間」から解放され、隅々まで明確な「意味」で充たされた堅固な人生を駆け抜けるのである。そのとき、彼の思想や行為は悉く、超越的な星図との間に特別な照応を示すだろう。物語という天蓋によって世界を蔽い尽くすこと、荒涼たるニヒリズムに渾身の力で叛くこと、それが三島由紀夫という作家の胸底に宿った最大の野望なのである。

 尤も、この「岬にての物語」において、無垢な少年に擬せられた作者の視点は未だ、宿命的な物語を生きる当事者の苛烈な内奥には達していない。彼は儚い目撃者のように、到来する悲劇の片鱗を辛うじて瞥見するだけに留まる。それは丁度、戦時下の青春期に華々しい「夭折」の悲運に憧れながら、遂に戦場の英雄となる資格を得られぬまま、忌まわしい終戦詔勅を拝受した作者自身の境遇に酷似している。

岬にての物語 (新潮文庫)

岬にての物語 (新潮文庫)