サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「理想」と「憂愁」の複合体 三浦雅士「距離の変容」

 三島由紀夫に関する評論を書こうと思い立ち、それに伴って三島の作品のみならず、高名な論客による批評的な言及に就いても眼を通しておこうという考えの下に早速、三浦雅士の「距離の変容」(『メランコリーの水脈』講談社文芸文庫)と題された三島論を読み返した。

 三浦氏は『メランコリーの水脈』という一冊に纏められた複数の作家論を、或る共通の視座によって綴り合わせている。劈頭に掲げられた「メランコリーの水脈」というプロローグのような文章において、その論述の企図は明瞭に語られている。木村敏の著作を引きながら、彼は「メランコリー」を単なる感情の類型に留めず、その特有な時間意識に就いて定義を試みている。

 木村敏は『時間と自己』においてメランコリー者にあっては「過去・現在・未来をまとめた歴史的展開の全体が『とりかえしのつかない』確定性において経験される」と述べている。未来までもがすでに終ってしまったもののように感じられるというのである。(「メランコリーの水脈」『メランコリーの水脈』講談社文芸文庫 p.9)

 三浦氏は、確定された未来の側から現在を眺めるという「追憶」の形式に拘束された精神的形態を「メランコリー」と称し、その時間意識を重要な主題、或いは補助線として用いている。「距離の変容」において、三島に対しても適用された「メランコリーの時間意識」という視点は、一定の成果を挙げているようには見えるが、それだけで三島の特性に関する本質を穿ち得ていると結論するのは拙速な判断である。

 現代文学を覆っているもっとも根本的な問題は、人間の生の根拠が失われているという漠とした不安である。むろんこのような不安はいつの時代にも病的に鋭敏な魂を侵蝕してきたが、現代文学においてそれはほとんど鮮明な恐怖というかたちをとるにいたった。この鮮明な恐怖をたとえば簡潔に核兵器による恐怖と述べることができる。核兵器は人類の終焉を、それもあまりにも無意味な終焉をたやすく想像させるものである。無意味な終焉は無意味な持続を示唆する。無意味な死が無意味な生を示唆するように。(「距離の変容」『メランコリーの水脈』講談社文芸文庫 p.39)

 核兵器が直接的な原因であるかどうかは疑わしいが、少なくとも三島由紀夫が「無意味な死」及び「無意味な生」を劇しく嫌悪していたことは事実であると言える。言い換えれば三島は「虚無」に対する克服を終生、自らの重要な実存的課題として抱懐し続けたのである。彼が様々な「物語」を創り出す人間として(小説家として、或いは劇作家として)生きることに執着した背景には、この通俗的な人生の度し難い「虚無」を、何らかの豊饒な意味で充塡しなければならないという切迫した衝動が関与していたのではないかと思われる。

 確定した未来から現在を眺めること、それはあたかも追憶するように現在を生きることにほかならない。三島由紀夫が『美しい星』で提起した問題は、核兵器を生み出した以上は、人類の時間は追憶に似るほかなくなったという問題である。それは時間観念の変容であると同時に、現実観念の変容でもある。なぜなら、もしもそうであるとすれば、あらゆる現実は眼前でくりひろげられながらもあたかも思い出のように薄膜を経て生きられるほかなくなるからである。核兵器の登場は、あらゆる人間に疎隔感をもたらすはずだ。三島由紀夫はそう述べているに等しい。(「距離の変容」『メランコリーの水脈』講談社文芸文庫 pp.43-44)

 「確定した未来から現在を眺めること、それはあたかも追憶するように現在を生きることにほかならない」というメランコリックな時間意識は、必ずしも三島由紀夫の心性を適切に説明する概念ではないように思われる。確定した「破滅」が、三島の胸底に漆黒の「虚無」を宿す訳ではない。寧ろ彼は生きることの「無意味な持続」が齎す堪え難い絶望を打ち砕く為に「破滅」の予覚と信仰を自ら積極的に希求したのである。つまり三島にとって「破滅」は「虚無」の類義語ではなく、その源泉でもなく、相互に敵対する観念なのだ。

 むろん世界崩壊の確信と「他人の人生を生きること」という信条とは必ずしも直線的に結びつくものではない。世界崩壊の確信は容易に人を一回だけの個性的な人生へと誘うだろうし、世界崩壊の確信がなくとも、人生上の重大な蹉跌は人に他人の生を強いるであろうからだ。世界崩壊が他人の生を強いるとすれば、それはただ、世界崩壊という確定された未来が人間の現実感覚を変容させ、好むと好まざるとにかかわらず人間の生から生々しい現実感を払拭してしまうと考えられる場合だけである。三島由紀夫が、世界崩壊にはこの最後の場合しかないと考えたことは明らかである。(「距離の変容」『メランコリーの水脈』講談社文芸文庫 p.45)

 この段落における論旨の揺らぎは、三浦氏の思索の混迷を暗示しているように思われる。彼は杉本清一郎の「有能なニヒリスト」としての処世術を「世界崩壊の確信」というメランコリックな感情による強制の産物であると看做している。虚無の齎す疎隔の感覚が、彼に「他人の人生を生きること」を強いていると論じているように聞こえる。けれども、恐らく清一郎にとって「世界崩壊の確信」は「核兵器による恐怖」に象徴される「無意味な生」への絶望に抗する為の切迫した祈念であって、寧ろそれは彼の精神を庇護する大切な呪符の役目を担っているのである。滅び去ることは、清一郎にとって「虚無」の原因ではない。破滅など有り得ないという「無意味な持続」の理念こそ、彼の憎悪する最大の宿敵なのである。「世界崩壊の確信」はメランコリーの源泉ではなく、独自に編み出された風変わりな処方箋なのだ。

 プラトニズムといってよいような事態がここには描かれている。幼年時代に完璧な世界を体験した夏雄にとって、その後に展開する現実は不完全なものにすぎない。清一郎が未来から現在を追憶しているとすれば、夏雄は過去から現在を追憶している。ともに現在が追憶の対象であり、どこかしら非現実的なものであることにかわりはない。(「距離の変容」『メランコリーの水脈』講談社文芸文庫 p.46)

 若しも三島由紀夫という一個の才能に固有のメランコリーを見出すとすれば、それは「核兵器による恐怖」や「世界崩壊の確信」によって醸成されるものではなく、山形夏雄の人格的造形に織り込まれた「プラトニズム」の心理的帰結であると言うべきだろう。完璧で精緻な理想の実在を「事前に」想定するプラトニズムの時間意識は、実存的時間の全篇を「劣化した模像」として定義し、貶下する。どんなに長く生きようとも、万物の始原に想定される「イデア」(idea)と合致することも、それを超越することも不可能であると考えるプラトニックなメランコリーは、感性的に享受される「生成」と「現象」の一切を侮蔑して已まないのである。そして、こうしたプラトニックなメランコリーの齎す問題を最も精細に描き出した傑作が、かの有名な「金閣寺」であることは論を俟たない。

 人間が虚無に直面するのは外界と決定的に隔てられているからである。この虚無をかたちあるものにすることが世界を破滅させることであるとすれば、世界崩壊と外界との疎隔とは虚無の両面にほかならない。これはそのまま思想の現在を衝き動かしている危機の図式であるといってよい。(「距離の変容」『メランコリーの水脈』講談社文芸文庫 p.50)

 「虚無」の自覚を外界との疎隔に還元して要約してしまうのは、冒頭で掲げられた明快な「無意味な終焉」に関する論旨を転覆する行為であるように思われる。恐らく溝口が「美の象徴」である金閣を焼き払おうと思い立ったのは、プラトニックなメランコリーを生み出す「完璧な始原」を破壊することで、現象的な「人生」に参与する端緒を掴もうと志した為ではないか。外界との疎隔がメランコリーを生むのならば、わざわざ金閣寺を焼亡へ陥れるには及ばない。遊郭に通い詰めれば、少なくとも「女」との疎隔は具体的に改善され、何れは貪婪の涯の倦怠にまで辿り着くだろう。本来の問題は、プラトニックなメランコリーが「不能」や「吃音」の遠因であるということだ。予め存在する「完璧な実在」に比すれば、どんな感性的現象も「醜悪な生成」に過ぎないという根深い信憑を除かない限り、溝口の病理は抜本的な快癒を得ないのである。

 同じ店の同じ女を訪ねて、そのあくる日も私は行った。金が十分残ったからばかりではない。最初の行為が、想像裡の歓喜に比べていかにも貧しかったので、それをもう一度試みて、少しでも想像上の歓喜に近づける必要があったのだ。私の現実生活における行為は、人とはちがって、いつも想像の忠実な模倣に終る傾きがある。想像というのは適当ではない。むしろ私の源の記憶と云いかえるべきだ。人生でいずれ私が味わうことになるあらゆる体験は、もっとも輝やかしい形で、あらかじめ体験されているという感じを、私は拭うことができない。こうした肉の行為にしても、私は思い出せぬ時と場所で、(多分有為子と)、もっと烈しい、もっと身のしびれる官能の悦びをすでに味わっているような気がする。それがあらゆる快さの泉をなしていて、現実の快さは、そこから一掬の水を頒けてもらうにすぎないのである。

 たしかに遠い過去に、私はどこかで、比びない壮麗な夕焼けを見てしまったような気がする。その後に見る夕焼けが、多かれ少なかれ色褪せて見えるのは私の罪だろうか?(『金閣寺新潮文庫 p.290)

 プラトンの有名な「想起説」を連想させるこれらの文章は、三島由紀夫プラトニックな心性を極めて鮮明に告示している。彼にとって現実の行為は、幾ら繰り返しても絶対に「比びない壮麗な夕焼け」へ到達することの出来ない無益な労役と同義である。そして「金閣寺」という作品は、こうした救い難いメランコリーを打破する為の危険な格闘によって構成されているのである。若しも溝口が究竟頂の扉を開け放って「金閣」と共に焼け死んだとすれば、彼は「比びない壮麗な夕焼け」との合致に生命という賭け金を残らず投じたものとして扱われただろう。しかし彼は「イデア」(idea)との融合の不可能を悟って「生成」と「現象」の世界に帰還することを辛うじて選択した。こうした問題は「金閣寺」以後も、絶えず三島の精神を呪縛する重要な課題として働き続けたように思われる。

 三島由紀夫が結果的にその文学そしてその文体で示したことは、核兵器という世界崩壊の象徴が、人間にメランコリーの時間性を、あるいはそれに酷似した時間性を強いるということであり、また現実との疎隔感を強いるということである。(「距離の変容」『メランコリーの水脈』講談社文芸文庫 p.68)

 三浦氏の導き出した結論は、少なくとも私の眼には強引な論理的工事のように映じる。三島におけるメランコリーは「世界崩壊の確信」ではなく、寧ろ「世界崩壊の欠如」によって齎される。彼にとって最も堪え難い事態は「確定的な破滅」ではなく「無意味な持続」の永遠性である。「破滅」は「恩寵」と同義なのだ。尤も彼は「無意味な生」と同様に「無意味な死」も望んでいなかった。「核兵器」の暗示する「匿名の戦死」は、彼にとって承服し難い「破滅」の形態だった筈だ。恐らく三島は晩年に臨んで、人類から永久に追憶され、無限に参照される「イデア」(idea)のような存在として死ぬことを希求するようになったのではないだろうか。

メランコリーの水脈 (講談社文芸文庫)

メランコリーの水脈 (講談社文芸文庫)

 
金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)