サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

封鎖された未来、彼岸への跳躍 三島由紀夫「頭文字」

 三島由紀夫の短篇小説「頭文字」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。

 この簡素な物語の構造は、直ちに読者の脳裡へ「春の雪」の有名な悲恋を甦らせるだろう。尤も、松枝清顕の綾倉聡子に対する屈折した恋情に比べれば、朝倉季信と千原渥子の関係は遥かに簡明な純粋性を宿しているように思われる。清顕が聡子に恋情を燃え上がらせるのは、二人の関係が「勅許」という至尊の命令によって必然的に禁忌と化し、その未来図を扼殺されたことに基づく。未来の欠如によって劇しい愛慾が覚醒するという心理的構造は、凡庸であると言えば凡庸だが、如何にも三島的な主題であることは論を俟たない。

 情死という事件は、三島が繰り返し取り扱った自家薬籠中の文学的主題である。その重要な特質は「未来の欠如」即ち「時間の欠如」に存する。何らかの理由で未来を絶たれた関係が、それでも性急な合一を求めて、遂には「死の共有」という選択肢を採るという成り行きは、平常な時間の秩序の外部へ飛び出すことに等しい。時間の支配する生成的な現象界を超越し、無時間=永遠の実在界へ移行するというプラトニックな欲望が、そこには鮮明に顕現している。

 古代ギリシャの哲学者プラトンは、人間の学習に就いて「想起説」(アナムネーシス)という独特な理論を提示した。彼にとって「学習」とは知識の新たな獲得ではなく、霊魂が未生の段階で予め獲得していた知識の「再現=想起」を意味する。事前に完璧な知識が存在し、人間はそれを始原の記憶の裡から発掘するが、肉体的な感覚を通じた「不完全な認識」(ドクサ)が、その復刻を妨げていると看做すのが、プラトニズムに固有の論理である。生身の人間が享受する感覚的認識は総て「仮象」に過ぎず、本来の「実相」は決して肉体的な感官によっては把握されないという原則は、プラトニズムの礎石を成すものである。

 「実相」の世界は「時間」を持たない。何故なら「実相」は定義上、普遍的で恒久的な「本質」を意味するからである。時間の変化に伴って定義が改訂されるような「本質」は「実相」という観念に適格する要件を欠いている。現象的な「時間」の終焉は、プラトニストにとっては「純然たる霊魂への回帰」と「肉体からの脱却」という「恩寵」を含意している。プラトニストにとって「肉体」は、正しい智慧の獲得を阻害する悪しき条件に過ぎないからである。こうした考え方は後世、キリスト教イスラム教に決定的な影響を及ぼすこととなる。

 皇族の横恋慕によって渥子との関係を遮られた季信は、自ら志願して激戦地に赴任し、非業の死を遂げる。その訃報は、ナイフで刻まれた頭文字の傷跡を通じて渥子に届けられる。悲痛な衝撃に心を射抜かれた渥子は、終戦と共に他界する。「死の共有」が一般的に「彼岸における永遠の紐帯」を暗示することは言うまでもない。「彼岸=無時間的な実在界」への移行は、二人の関係を或る絶対的な秩序へ昇華することと同義である。若しも「未来」という時間的枠組みが存在したら、如何なる真摯な情愛も、現象界の掟に従って生滅を繰り返し、何れは無惨な腐蝕と風化に見舞われるだろう。相対的なものを絶対化すること、変化するものを不動のものへ置き換えること、こうした「絶対化への欲望」こそ、プラトニズムの論理を形成する基礎的な理念である。

 時間的な生成変化の法則を免かれ、或る現実を決して色褪せない永遠の「剝製」に置き換えようとする野心は、三島の文学を色濃く染め上げる主要な旋律である。聖痕のように浮かび上がる頭文字の不穏な暗示自体が、既に生成的な現象界の軛を超越する秘蹟の特権を含んでいる。それは同時に普遍的な実在としての「イデア」(idea)に我が身を合致させようとする法外な要求も併せ持っている。有り触れた恋愛を、絶対的な範型に高めようとする衝動は、言い換えれば「宿命」への憧れと同義であるように思われる。

岬にての物語 (新潮文庫)

岬にての物語 (新潮文庫)