サラダ坊主日記

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「仮象」の舞台で、自在に踊れ 三島由紀夫「親切な機械」

 三島由紀夫の短篇小説「親切な機械」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。

 三島由紀夫の文業は「プラトニズム」と「ニヒリズム」の双極に向かって引き裂かれている。これが近頃、私の抱懐している未成熟な見解である。プラトニズムは、世界の背後に超越的な価値を見出す精神的形式である。この衝動が挫折するとき、三島はニヒリズムの方角へ転回する。超越的価値を否定し、無意味な日常性の深淵に回帰して、最終的な破滅の期待の裡に、驚くべき軽捷な生き方を成立させるのである。その萌芽は、初期の「盗賊」や「青の時代」といった作品に窺われ、「金閣寺」に登場する忘れ難い奇人・柏木の弄する独自な理論の裡にも象嵌されている。

 三島の作品に登場する最も明確なニヒリストは恐らく「鏡子の家」の杉本清一郎であろう。彼は「世界崩壊の確信」を懐くことで、千篇一律の退屈な日常に融通無碍の適応を示す。彼の卓越した社会的有能性は、諸々の社会的価値に対する根源的な不信と蔑視に由来する。杉本清一郎という乾燥したキャラクターを通じて造形された三島的なニヒリズムは、決して到来しない「世界崩壊」への期待を護符として崇めるものである。

 若しも世界が遠からず滅び去るのならば、社会の要求する雑多な義務や責任は何の価値も持たない。若しも世界が永久に滅びないのならば、そうした要求は無限に増殖し、比喩的な「課税」の総額は堪え難い重量へ達するだろう。三島にとっての「敗戦」は、こうした「課税」の無際限な膨張を暗示する絶望的な事件であった。そのとき、現実の荷重を一挙に清算する徳政令の如き終末論的破局の不在が告示されたのである。

 プラトニズムは、生成的な現象界を「仮象」と看做す認識論的な装置である。「実相」は常に我々の感性的認識が及ばない領域に隔離されている。三島的な欲望は、こうした「実相」を「仮象」の世界へ引き摺り下ろそうとする衝迫を、自らの内部に根深く宿している。そして「破滅」は、こうした「実相」と「仮象」の奇蹟的な逢着を実現する唯一の方途として定義される。しかし、敗戦によって「破滅」の望みは絶たれ、両者の疎隔は揺るぎない秩序として厳格に樹立された。「破滅」の有り得ない世界で、薄汚れた「仮象」の群れに四方を囲繞されながら生きること、これがニヒリズムの培養される基礎的な条件である。総てが不完全な「仮象」に過ぎないのならば、如何なる行為も容認される。何れにせよ超越的な「実相」から見限られているのならば、非道な蛮行も醜悪な偽善も悉く等価である。総てが無価値であるということは、総てが等価であるということと同義なのだ。価値に階梯を設けないこと、それは要するに「価値」という概念の根源的な廃絶を意味する。ニヒリズムが齎す無軌道な自由は、こうした「価値」の蹂躙によって保障されているのである。

 木山の示す法外な自由は、明らかにニヒリズムの恩恵によって組み立てられている。彼は世界の総てを「仮象」と看做す虚無的な思想に忠誠を誓うことで、煩瑣な心理的葛藤を特別に免除されているのである。

 木山の生活はいかにも楽々と運んだ! 一寸手をうごかせば何事も成就した。金儲けがそうであり、女がそうであり、試験勉強がそうである。学生のアルバイトでは闇ブローカアが最も高級な部類に属するが、このアルバイトで木山に及ぶ者はなかった。時折姫路くんだりまで足をのばして、十万単位の取引をまとめた。サントリーウイスキイがまだ町に見られない頃のことなので、ストック品の闇売買が、戦災に会わない京都を中心にして盛んであった。(「親切な機械」『岬にての物語』新潮文庫 p.119)

 あらゆる「価値」が「仮象」に過ぎず、根源的に等価であるならば、善行も悪事も共に同等の熱量で行われ得る。生きることも死ぬことも相互に隔たりがない。義務や責任は机上の空論であり、単なる暫時の口約束に類するものでしかない。漁色に耽ることも、ニヒリストにとっては女性に対する切実な執着を意味しない。それは無意味な遊戯であり、超越的で崇高な「愛」の理念を毀損する営為なのだ。

 「実相」への憧憬を絶って「仮象」の裡に自足すること、こうしたニヒリズムの実存的流儀は、四囲の総てを微温的に軽侮する皮肉な精神を発達させる。特定の対象に夢中になること、何らかの崇高な価値を盲信すること、束の間の幸福に執着すること、こうした人間的性質は悉く嘲笑される。ニヒリストは如何なる恣意的な対象にも自己を捧げることが出来る。如何なる対象も等しく無価値であるならば、何を選んでも、結果は同じだ。選んでも選ばなくても、共に「仮象」であるならば同じことだ。次から次へ愛する女を取り換えても、不法な売買で暴利を貪っても、それを殊更に不実であるとか背徳であるとか思い悩む理由は存在しない。何故なら、総ての行為は根源的に等価で、相互に優劣の序列を持ち得ないのだから。

 特定の価値観に呪縛されないからこそ、ニヒリストはあらゆる価値観の忠実な信徒に己を擬することが出来る。言い換えれば、それはニヒリストが空白の自己を有していることの証明である。何も信じていないからこそ、彼はあらゆる価値を信じているように見せかけることが出来る。この万能な「擬態」の能力こそ、ニヒリストの最も有益な特徴である。

 ニヒリズムは人心を荒廃させる。あらゆる事物が等しく無価値である世界で、ニヒリストに倫理や良心を求めるのは不毛である。彼らには生きている理由がない。死ぬ理由がないので、生きているに過ぎない。プラトニズムの欲望を抑圧した三島が、戦後の社会を生き延びる為に編み出したニヒリズムの作法は、恐らく彼の霊魂を充足へ導かなかった。杉本清一郎は「世界崩壊の確信」という教義に縋って有能な「仮面」を被り続けたが、彼自身の手で「破滅」の引鉄が絞られることはないだろう。ニヒリストはあらゆる種類の行為に手を染め得るが、本質的な意味では何も行動しない。何故なら、彼の行動は常に恣意的で、特定の価値を信奉するものではないからだ。彼の内部には、如何なる固有性も独創性も存在しない。自己の独創性を扼殺すること、それによって無限の自由を獲得すること、これがニヒリストの野心だが、三島が本当に求めていたものは「自由」ではなく「宿命」である。恣意的な「自由」よりも逃れ難い悲劇的な「運命」を欲することが彼の内なる欲望の姿である。

 彼は崇高な「宿命=物語」を欲して、晩年には右翼的な政治思想に傾倒した。「鏡子の家」に登場する深井峻吉のように、矯激なテロリズムの裡に霊魂の救済と解放を求めたのである。無論、それ自体がニヒリスティックな演技に過ぎないと看做すことは可能である。しかし、ニヒリズムだけでは説明し難い衝迫が、彼の末期には宿っている。

 猪口による鉄子の殺害という事件が、単なる逆恨みによるものではなく、共犯的な黙契の所産であることを、三島は適切に示唆している。猪口はニヒリストの対極に位置する人物であり、万物を等し並みに「仮象」と看做す代わりに「絶対性」への切迫した情熱を堅持している。猪口の鉄子に対する思い入れは、木山の眼には愚かしく報われない執心としか映じない。しかし、猪口と鉄子が惹起した事件によって、木山の堅牢で軽捷なニヒリズムは明らかに動揺する。彼の味わった「戦慄」は、ニヒリズムによっては救済されない秘められた欲望の存在を隠然と仄めかすものではないだろうか。無論、一切が済んでしまえば、事件は凡庸な情痴の激発として片付けられるだろう。それは「鵞鳥の盗難」と同等の重みしか持ち得ない、瑣末な悲劇に過ぎない。ニヒリストにとっては、殺人も盗難も等しく「仮象」なのだから。けれども、木山の精神は本当に万物を「仮象」と看做す人生に堪えられるだろうか? 「鏡子の家」を通り抜けた後の三島は恐らく、忍辱の限界を迎えたのである。

岬にての物語 (新潮文庫)

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鏡子の家 (新潮文庫)

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