サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

遮断された「彼岸」への通路 三島由紀夫「志賀寺上人の恋」

 三島由紀夫の短篇小説「志賀寺上人の恋」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。

 地上の現象的世界を超越した「彼岸」の領域を想定する思惟の形式は、洋の東西を問わず、人類の文明に幅広く瀰漫している。特に宗教の領域において「彼岸」の想定は殆ど普遍的な類型であると言って差し支えない。

 富貴の人を見れば、夢の中の快楽であることにどうして気がつかないのかと憫笑びんしょうする。容色の美しい女に会っても、煩悩につながれて流転るてんする迷界の人を気の毒に思う。

 この現世を動かしている動機にすこしも共感を抱かなければ、その瞬間から、現世は静止してしまう。上人の目にはその静止の相だけしか見えず、現世はただ紙上の絵、他国の一枚の地図にすぎない。こうした無漏むろの心境は、恐怖をも忘れさせてしまう。なぜ地獄が存在するのかわからなくなるのである。自分に対する現世の無力はあまりに自明で、しかも決して傲慢な人ではなかったから、それがおのれの高徳の結果であるとも思いもよらなかった。(「志賀寺上人の恋」『岬にての物語』新潮文庫 p.270)

 上人の「高徳」は「現世」或いは「此岸」の価値を一切認めないことによって成立している。上人の眼に映じる「静止の相」を、プラトニズムの語彙に置き換えるならば恐らく「実相」に該当するだろう。「彼岸」を観ずることは即ち「実相」だけで構成された世界を幻視することである。こうした「高徳」を帯びた人間にとって、感覚的な欲望は無益な衝動に過ぎない。

 肉体はすでにあらかた上人から失われていた。浮き出た骨が衰えはてた皮膚にわずかに覆われている我身を、入浴の折など、みずから眺めて喜びを感じた。この肉体となら、もう他人のように、折れ合ってゆくことができる。浄土の飲食おんじきのほうが、すでにこの身に叶っているように思われる。(「志賀寺上人の恋」『岬にての物語』新潮文庫 p.270)

 極限まで老衰した肉体を眺めて、その無抵抗に喜悦を感じるという発想は、浄土信仰に内在する「厭離穢土」の感受性を鮮明に象徴している。「彼岸主義」を奉じる者にとって「肉体」は歴然たる宿敵である。人間が「肉体」という監獄に封じ込められた存在であることへの呪詛は、プラトンの遺した書物においても語られている。上人の衰えた「肉体」は単なる加齢の帰結に留まるものではない。それは長年に亘って「彼岸主義」の精神的な圧政に虐待され続けてきた「現世」の、憐憫に値する無惨な荒廃の暗喩なのである。

 夜毎の夢と云っても、浄土の夢のほかにはもう見なかった。目がさめるときに、現世に生きることの、無常の憐れな夢の中にまだつなぎとめられていることを知って哀しむのであった。(「志賀寺上人の恋」『岬にての物語』新潮文庫 p.270)

 「肉体」が「仮象」であり「現世」が「無常の憐れな夢」であるという上人の信仰は、素朴な経験論的実感に背馳している。彼岸主義の最大の特質は、我々の肉体的な感官に入力される情報の一切を「仮象」即ち「無常の憐れな夢」として定義し、貶下するという点に存する。「実相」は「浄土」の裡に在り、我々の肉体に映じるものは悉く迷界の幻影に過ぎない。こうした考え方の持ち主にとって「老衰」と「死」が直ちに「恩寵=救済」を意味することは明白である。生きることは「仮象」に惑わされ、贋物の認識に拘束されることと同じなのだ。

 現世が一瞬のうちに、おそろしい力で上人に復讐をしたのである。もう大丈夫と思っていたものが瓦解したのである。

 庵にかえって、本尊に向って、名号を唱えようとする。しかし妄想の面影ばかりが立ち添うて妨げた。あの美しさは仮の姿である。滅ぶべき肉体の一時の現象である、そう思おうとするが、言いがたい美しさで上人の心を搏った瞬間の力は、何か稀有の、久遠の力のように思われた。一方、この感動をひたすら肉体のいたずらのように思い込むためには、上人はあらゆる意味で若くはなかった。肉体とはそんなにも一瞬に変貌するものではない。何か迅速で微妙な毒を浴せられ、精神がたちまち変質したのだと考えるほうが当を得ている。(「志賀寺上人の恋」『岬にての物語』新潮文庫 pp.271-272)

 「仮象」を「実相」と取り違えることは彼岸主義にとって敗北を意味する。滅び得るものは生成し得るものであり、従ってそれらは普遍的な本質を欠いている。そうやって「現象」の世界を超越しようと企図することが、彼岸主義の最も重要な眼目なのである。上人にとって「恋」に陥ることは、彼岸主義的な「高徳」の崩壊と同義である。「厭離穢土」の徳目を信奉する精神にとって「肉体」と「感覚」は、呪わしい「宿痾」に他ならないのだ。

 しかし、この短い物語は「彼岸主義の敗北」という単純な構造に全篇を覆われている訳ではない。上人は「実相」を捨てて「仮象」の世界に降下したのではなく、「仮象」の裡に特権的な「実相」の顕現を見出して恐慌を来しているのである。

 上人は御息所みやすどころの幻をいろいろと荘厳することに喜びを感じた。そうやって恋の相手を、ますますきらびやかな存在に仕立て、ますます遠い、ますます不可能なものにすることに、どうしてこれほど喜びを感じるのかわからなかった。むしろ御息所を手近な卑しい女体として思い描くほうが、自然ではなかろうか。そのほうが少くとも、幻影の裡だけでも、恋する者を有利にすることではあるまいか。

 こう考えると、上人は自分の御息所に描いているものが、ただの肉ではなく、また、ただの幻影でもないことに気づくのであった。上人はたしかに実相を、実体を描いていた。女人の上にそういう実体を尋ねるとはふしぎなことである。高徳の僧は、恋に陥ってさえ、抽象化によってものの実体に迫ろうとするその日頃の修練を失ってはいなかった。京極の御息所は、今や二百五十由旬の巨大な蓮の幻と一つになった。多くの蓮の花に支えられてまどろんでいる彼女は、須弥山よりも、一つの国土よりも巨大なものになったのである。(「志賀寺上人の恋」『岬にての物語』新潮文庫 pp.278-279)

 上人は「恋」に落ちることで「欣求浄土」の宿願と絶縁したのではない。本来、地上には顕現する見込みのない「実相」の姿を、肉体的な「仮象」の裡に発見するという奇態な矛盾に逢着したのである。「実相」を不可知の領域に留め、専ら純一に「彼岸の幸福」を祈念する形而上学的な欲望の形態は、恐らく作者の本意に合致していない。こうした矛盾は、三島の代表作である「金閣寺」において精力的に追究された問題と相互に響き合っている。「実相」を「仮象」の裡に宿らせるという不可能な欲望が、放火犯の僧侶に託して語られた三島の牢固たる「痼疾」なのである。

 若しも上人が、長年に亘って営々と築き上げてきた貴重な「高徳」を抛ち、迷界の情慾に耽溺してしまっただけならば、自ら好んで御息所の面影を荘厳しようとは考えなかっただろう。「実相」を「空想」と看做す無粋な現世主義の信徒は、特定の女性を過度に讃美しながら具体的な関係の成就を断念するという迂遠な精神に向かって、酷薄な冷笑を浴びせるだろう。実らぬ恋に執着して無為の日月を閲するくらいならば、他所の女に鞍替えする方が遥かに合理的な判断である。他方、若しも上人が完璧な彼岸主義者であったならば、所詮は「仮象」に過ぎない特定の女人に血道を上げるような愚挙は犯さなかっただろう。事実、御息所に邂逅する以前の上人は、巷間を跋扈する「容色の美しい女」たちに聊かも心を動かさずに生きてきたのである。

 「実相」と「仮象」を重ね合わせること、それこそが三島的な欲望の枢要を成す主題である。理性によって「実相」を観ずるだけでは虚しく、感性を通じて猥雑な「仮象」の裡に惑溺するだけでも決して満たされない。この厳粛な矛盾に直面して、超克に向けた様々な方策を講じることが、彼の実存的な物語を支配する根源的な規約であったのだ。

岬にての物語 (新潮文庫)

岬にての物語 (新潮文庫)