サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「純潔」の逆説 三島由紀夫「十九歳」

 三島由紀夫の短篇小説「十九歳」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。

 少年期に固有の精妙な心情を描くことは、三島が様々な作品において幾度も試みた主題である。「殉教」や「午後の曳航」に登場する陰湿な少年たちは、社会と大人に対する冷徹な憎悪を燃え上がらせ、透明な矜持にまで磨き上げている。その基礎的な特徴の一つが「純潔」に対する侮蔑である。

 彼は入学匇々迫害された。少年というものが彼らの年齢特有の脆弱さを意識して反対の「粗雑さ」に憧れる傾向を、亘理は冷眼視しているように思われるのだった。彼はむしろ脆弱さを守ろうとしていた。自分自身であろうとする青年は青年同士の間で尊敬される。しかし自分自身であろうとする少年は少年たちの迫害に会うのである。少年は一刻でも他の何物かであろうと努力すべきであった。(「殉教」『殉教』新潮文庫 pp.71-72)

 「純潔」を幼児性の象徴と看做し、素朴な美徳を蹂躙することに憧れを覚えるのは、少年たちの生理的な宿命である。「粗雑」であることは、襲い掛かる不条理な現実への高度な耐性を含意する。鋼鉄の精神の所有者として自己を定義すること、それが少年たちの虚栄心の対象である。彼らは純朴で繊細な存在として遇されることを厭う。

 しかし、純潔であることを殊更に侮蔑しようとする心理的な機制が、却って彼らの「純潔」を立証する皮肉な根拠であることを看過すべきではない。純潔を失った人間にとっては、少年の純潔は眩しい美質であり、二度と還らぬ郷愁の対象である。それを態々踏み躙ろうと試みるのは、当人が紛れもない「純潔」の渦中に置かれていることを間接的に物語っているのだ。

 少年は年嵩の画家に向かって、己の「不純」を証明する為に無数の背徳的な挿話を語る。彼は後ろ暗い「過去」を曝露することで自らの内なる「純潔」を蹂躙しようと躍起になっているのだ。しかし、その策略は純朴極まりない恋心の吐露によって破綻を来す。少年の「過去」は未だ、彼自身の「純潔」を破壊するほどの毒素を湛えていない。寧ろ彼の「過去」は、如何なる悪辣な履歴によっても毀損されない純真な慕情の存在を、鮮明に浮かび上がらせる下地の役割を担っている。「純潔」を意図的に排撃しようとする精神は、それ自体が一つの「純潔」である。

 「純潔」という美徳は「絶対」という超越的観念との間に緊密な紐帯を築いている。不合理な混迷に覆われた相対的な「仮象」の世界に惑溺することは、純潔な人間にとっては苦痛な事態である。第一に彼ら少年は、自己の絶対性という如何にも純潔な信仰を棄却することが出来ない。自分を特別な存在と看做したがる心理的性向は、絶対者への憧憬と不可分なのだ。だからこそ、有り触れた幼年期の凡庸な記憶を語る代わりに、清一は特注品の黒ずんだ「過去」を誇示するのである。「粗雑さ」を求める奇態な欲望は、本物の粗雑な世界に骨の髄まで浸り込んだ人間には無縁の心理である。彼らは寧ろ、永久に失われてしまった「純潔」の夢想を存分に懐かしむだろう。結局、人間は手の届かない対象にしか憧憬の感情を懐くことが出来ない生き物なのである。

岬にての物語 (新潮文庫)

岬にての物語 (新潮文庫)