サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「国家」に関する覚書 12

 プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 「実在」と「生成」に関するプラトンの区別は、認識の真偽という観点においては、極めて明確に「生成」の劣位を認めている。だが、そうした前提は決して「実在」の観照への逼塞を奨励するものではない。つまり、生成界と訣別して実在界の高みへ移住することを目的として、プラトンは超越的な思惟の鍛錬を推進しているのではない。何故なら、彼の主要な関心は、宗教的な神秘主義に基づいて現世の生活を蔑視し、世俗の論理と絶縁する「隠者」の境涯に向けて捧げられている訳ではないからだ。彼の野心は飽く迄も政治的で社会的なものに注がれている。現世を脱却して彼岸へ遁走することが彼の欲望の本質である訳ではない。

 事物の認識に際して、現前する感覚だけを盲信している限り、我々の認識の範囲は或る肉体的な制限を脱却し得ない。感覚が捉え得る情報は、感官に備わっている機能の構造的な限界を超越出来ない。尚且つ、感覚は様々な与件に影響されて、その認識の内容を変化させてしまうことが珍しくない。言い換えれば、感覚的な認識は常に「時間」の制約を蒙るのである。「時間」に応じて変化する認識だけを根拠に持つ思惟は、長期的な探究に堪え得ない。絶えず認識の対象が浮動し続ける為に、首尾一貫した論理の流れを維持することが困難になるからだ。

 プラトンの企図は「時間」の制約を受けない思惟を確立することに存する。「時間=生成」の制約を免かれた普遍的な本質に「事物」を還元することが、その初歩である。尤も、プラトンはそうした形而上学的な還元を決して人工的な操作とは看做しておらず、寧ろそれこそが「認識」の本来的な様態であるという見地に立脚している。感覚的な認識は、形而上学的な認識を妨礙する障壁として作用する。それゆえに、如何に感覚を離れて理性的な思惟に回帰するかということが、教育を論じるに際しての最も重要な懸案となる。それは「タブラ・ラサ」としての人間の精神に、外部から新たな情報を移植するということとは本質的に異なる営為である。

 「ではどうだろう」とぼくは言った、「次のことは、そうありそうなこと、いやむしろこれまでに言われてきたところからすれば、必ずそうでなければならぬことではないだろうか? つまり、教育を受けず、真理をあずかり知らぬ者には、国をじゅうぶんに統治することはできないが、そうかといってまた、教育を積むことだけの生活に終始するのを許されているような人々にも、それはできないだろうということだ。前者の場合は、公私におけるすべての行動が目指すべき、人生の一つの目標というものを、彼らがもっていないことがその理由であり、他方後者の場合は、そういう人々はまだ生きているうちから〈幸福者の島〉に移住してしまったようなつもりになって、すすんで実践に参加しようとはしないことが、その理由である」(『国家』岩波文庫 p.118)

 プラトン的な「教育」は、新たな知識や情報の獲得を意味するものではない。精確な知識は予め人間の「魂」の裡に宿っており、学習はそれを「想起」する作業に過ぎないというプラトンの考え方は、知識を自己の外部に求める作業を重視しないのである。重要なことは、感覚から理性への「転向」を実現する過程の裡に存する。言い換えれば、事物の偶有的な要素を離れて、普遍的な本質へ視線を転じることが肝要なのである。その重要な「転向」を果たさぬまま、徒らに感覚的な「仮象」の記憶を集めても、根本的な飛躍は望めない。

 しかし、普遍的な本質を観照すること自体が、プラトンの提示する「教育」の最終的な到達地点である訳ではない。彼は普遍的な本質を把握した上で、感覚的な「仮象」に支配される人々の暮らす「洞窟」へ帰還することを厳格に要求する。彼は超越的な「彼岸」の逼塞する隠者の優雅を評価しない。何故なら、プラトンの思想は常に政治的な野心と不可分であるからだ。地上の現実を離れた超越的な思惟に邁進したプラトンが、却って現世との社会的な関係に固執し、感覚的な認識を重んじたエピクロスの方が寧ろ隠者の生活を称揚したという史実は興味深い。

 時間の制約を超越した普遍的な本質を「実在」と看做すプラトンの思想は、科学的な実証主義に馴染んだ人の眼には、壮大な空論のように映じるかも知れない。けれども、実際に我が身を振り返ってみれば、彼の形而上学的な発想がそれほど奇矯なものではないことは直ちに諒解し得るのではないかと思われる。自己の感官が告げる情報だけを鵜呑みにして生きることは、極端な視野狭窄として世人の冷笑を浴びるだろう。無論、感覚を軽蔑して壮麗な観念の世界だけを信仰することも同様に嘲弄の対象となるに違いない。だからこそプラトンは、生きながらにして「幸福者の島」に移住する厭世的な態度を戒めたのである。

 事物の「本質」を実体化する考え方は、聊か眉唾物であると言わねばなるまい。事物の普遍的な特性を考究することは、感覚に惑わされない堅牢な認識を構築する上では必須の営為である。但し、そうやって見出された普遍的本質を、感覚的な仮象に先行する実在として規定することは、必ずしも不可避の措置ではない。このような考え方は、例えば人工的な物体に関する定義としては妥当なものである。自転車を製造する者は、事前に「自転車」という一つの普遍的な観念を有している。その普遍的本質に様々な偶有的要素を附加することで、自転車は具体的な事物として創造される。言い換えれば、プラトンの思想は暗黙裡に我々の暮らす世界を、超越的な絶対者による「被造物」として眺めているのである。後年の対話篇「ティマイオス」においてプラトンは、その超越的な絶対者に「デミウルゴス」という呼称を与えた。

 この世界は予め合理的な意志に従って設計されたものであるという理念は、当然のことながら事物の普遍的な「本質」を、実際の個体に先行する「実在」として定義するように要求する。世界を合理的な必然性に支配されたものであると看做すかどうかは、重要な分水嶺である。誰かの意志で設計されたものであるならば、それが誤作動を起こしたとしても、その過程には必ず精妙な因果律が内在している。

 エピクロスは「クリナメン」(clinamen)という純然たる「偶然」の要素を導入することで、宇宙の誕生から続く必然的な因果律の鎖に切れ目を入れた。それは直ちに因果律の存在を全面的に否認するものではないが、予期し難いクリナメンの介入を認める限り、事物の普遍的な「本質」という理念は成立しなくなる。如何なる事物の特質も、クリナメンの唐突な関与によって覆される可能性を含むことになるからだ。クリナメンの最大の特徴は、その発生が時間的にも空間的にも決して事前に定められないという点に存する。事物の普遍的な「本質」が、あらゆる感覚的現象に先行して実在するという考え方は、こうしたクリナメンの概念を論理的に包摂することが出来ない。しかし、感覚的現象を基点に据えて、帰納的に思惟するエピクロスのような人間にとっては、クリナメンの概念は、デミウルゴス専制を打倒する為の重要な武器として有益である。

 設計主義的な思考は、純然たる偶然の介入を嫌悪する。理想的な国家の建設に関するプラトンの厖大な議論は、明らかに「正しい設計図」の獲得を目的としている。事前に設計図を明確化した上で、理想的な国家の建設に着手すべきだという考えは、教育に関する彼の議論とも符節を合している。

 されば君たちは、各人が順番に下へ降りて来て、他の人たちといっしょに住まなければならぬ。そして暗闇のなかの事物を見ることに、慣れてもらわねばならぬ。けだし、慣れさえすれば君たちの目は、そこに居つづけの者たちよりも、何千倍もよく見えることだろう。君たちはそこにある模像のひとつひとつが何であり、何の模像であるかを、識別することができるだろう。なにしろ君たちは、美なるもの、正なるもの、善なるものについて、すでにその真実を見てとってしまっているのだから。(『国家』岩波文庫 p.121)

 洞窟を出ることは、精密な設計図を手に入れることに等しい。但し、完璧な設計図に見蕩れることが哲学者の役割であるとは言えない。その設計図に基づいて、理想的な社会を創出することが、プラトンの野望の中核を成す構想なのである。クリナメンの概念を創案し、純然たる偶然の裡に自由意志の萌芽を見出したエピクロスが、隠棲の日々を肯定するのは自然な帰結であろう。彼にとって「理想の社会を設計する」という発想は余りにも傲慢で、抑圧的な精神の発露のように感じられただろうから。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)