サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

恋することは愛することと重ならない 3

 「結婚=生殖の一体的運用」というイデオロギーを解体することは、広義の「共生」に対する人間の欲望を適切に保護する手立ての一環となるだろう。「恋愛結婚」という理念は、共生的愛情に「恋情=性的欲求」の要素を強制的に附加することで「生殖への欲求」を保全し、促進する為のイデオロギーである。国家が「結婚」を祝福し、称揚する最大の理由は「生殖の促進」に他ならない。論理的に考えて、生殖活動が途絶した国家においては、成員の絶滅は不可避であり、成員の存在しない国家は成立し得ないから、最終的に国家が滅亡することは明確なコロラリーである。少子化が国家的課題に挙げられるのは、それが国家の存亡に直結する問題であるからだ。

 しかし、我々は既に「恋愛結婚」の極端な推進が、共生的能力の根絶と結婚制度そのものの消滅に帰結し得ることを確認した。従って「恋愛結婚」の奨励によって「生殖」を促進するという少子化対策は棄却されねばならない。「異性愛の配偶者によって独占的に養育される子供」という図式自体が、構造的な限界に迫られつつあるのである。

 先ず「結婚」という制度の再設計に就いて検討を進めてみたい。私見では、この再設計において最も基礎的な方針となるのは「結婚=共生」という素朴な定義を復権させること、そして「結婚=共生」の定義を大幅に多様化すること、これら二点である。

 日本国憲法の第24条は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と規定している。この条文における「両性」という限定は除去されねばならないだろう。つまり「結婚」に関して「異性愛」を前提とする生殖的含意を削除することが、結婚制度の再設計においては不可欠なのである。何故なら「結婚=生殖」という絶対的含意を除去することが、「結婚」を「広義の共生」に資する制度として改訂する上では極めて重要な手続きであるからだ。端的に言えば「結婚」を無条件に「セクシュアルな仕組み」と看做す伝統的信仰を排撃することが必要なのである。無論、配偶者が異性愛者で、濃密な性的関係を相互に望むことは一向に差し支えない。私の関心は「結婚」を純化することではなく、より包括的なものに置き換えることに向けられているからだ。

 こうした改訂が如何なる変化を社会に齎すか、想像的に検討してみたい。先ず「結婚」に関する性別の規定の撤廃は、同性愛などの性的少数者に「結婚」へ通じる門戸を開くことになるだろう。性的指向に関わらず、誰もが「結婚」という形で特定の伴侶との共生的関係を法律的に庇護されることになる。

 第二に「結婚=生殖」の癒合を解除する措置は、夫婦間の「望まない性交」を「暴力」と看做す現代的な考え方を更に尖鋭化し、一般化するだろう。「夫婦であれば性交に応じるのが当然である」という旧弊な固定観念が、陰惨な性暴力の温床として作用してきた歴史的事実を看過してはならない。また、こうした措置は「愛情=恋情」という等式、即ち「性交を愛情の確たる証拠」と看做す狭隘な偏見を除去することに繋がるだろう。「愛情の有無」と「性交の可否」を一義的に結び付けないことは、性暴力の被害から人々を護る上で重要な倫理的規約である。

 第三に「結婚=生殖」の癒合を撤廃することは、各自の「出産」や「養育」に関する自己決定の権利を保全することに繋がる。現代でも未だ「子供を持たない夫婦」への隠然たる蔑視は根強い。しかしながら「妊娠の強要」を行なう権利が、誰の手に握られているだろうか? 妊娠は、母胎への深刻な負荷を伴う営為であり、従ってその可否の決定は当事者の主体的判断に委ねられるのが妥当である。「子供を持たない夫婦」に対して、恰かも彼らが「怠慢」であるかのように謗る人間は恐らく「結婚=生殖」という伝統的イデオロギーの忠実な信徒なのである。しかし、育児に疲弊した夫婦が、育児に着手しない夫婦を暗黙裡に批難するのは不毛な諍いでしかない。「生殖=育児」に関する社会的支援や庇護の拡充は「子供を持つこと」に関する自己決定の権利の保全とは別個の問題として論じられるべきである。

 第四に「結婚=生殖」の通念を解体することで、監護者による無意識的な「子の私有」に伴う弊害(代表的なものとして挙げられるべきは「虐待」)の発生を緩和する効果が期待され得る。「結婚=生殖」のイデオロギーを解体するということは、言い換えれば「子の養育」という重要な営為を「家庭」という単位で仕切らない状態を意味する。広義の「集団的保育」が常態化し、子供たちは多様な共生的関係の下に生まれ育つことになる。それは裏を返せば「父母」に「養育」の全権を委ねる酷薄な社会的構造を是正することにも繋がる。また、劣悪な家庭環境が子供たちの成長に及ぼす望ましくない影響も相対的に緩和され、教育や保健に関する格差も縮小するだろう。

 第五に「結婚=共生」としての再設計を進めることは、様々な社会的孤立の事例を減殺することに寄与するだろう。単純に考えて、性別に関する規定を撤廃するだけでも、婚姻の件数は増大に向かう筈である。性的な含意を含まない純然たる「友情」に基づく「結婚」も認められるのだから、多くの人々にとって「配偶者」の選択肢は増大し、入籍する確率は上昇するだろう。「結婚」の成立する要件が緩和されれば、それを維持する難易度も相対的に低下するので、離婚に踏み切る事例は減少するだろう。「生殖」と関連しないのであれば、必然的に「年齢」に基づく結婚の制限も無用となるので、適齢期という観念は消滅し、極端な晩婚も何ら問題視されなくなる。高齢化社会においては配偶者との死別が頻発するだろうから、晩年の「孤独死」を防ぐ為に「終末婚」が奨励されるようになるかも知れない。

 第六に「結婚=生殖」の癒合の解除は「相続」に関する旧態依然とした考え方を更新するだろう。配偶者への遺産の分与は保全されるとしても、血縁を理由とした相続は廃止され、飽く迄も故人の遺志が尊重されることになる。それは巨額の遺産を巡る血族同士の諍いを抑制するだろう。

 第七に「結婚=生殖」の癒合の解除は「集団的保育の推進」と同期して「集団的介護の推進」を促すだろう。

 これらの空想的な検討は、煎じ詰めれば「結婚」という概念の包摂する範囲の拡張を企図している。「結婚」の定義が書き換えられれば、必然的に「家族」の定義も書き換えられるだろう。それは古典的な「家族」のイメージを信奉する人々の眼には「家族の解体」として映じるに違いない。「血縁」という伝統的な紐帯は、その特権的な価値を失墜させる。同性愛の夫婦が養子縁組を行なって、一つの「家族」を形成するとき、彼らを相互に結び付ける媒体は「血縁」ではない。

 尤も、あらゆる事柄には必ず明暗の両面が備わるものである。仮に「恋愛=結婚=生殖」の三位一体的信仰を解体したとき、如何なる弊害が生じるかに就いても検討を試みなければ、この考察は公正を欠くことになるだろう。

 「恋愛=結婚=生殖」の解体は、民法上の「貞操義務」という理念を弱体化させるだろう。少なくとも配偶者間の合意に基づいた「婚外恋愛」は、社会的制裁の対象としては認定されない。古典的な「妻妾同居」の復権も有り得る。「貞操義務」という理念の弱体化が極限まで亢進すれば、所謂「一夫一妻制」の原則も瓦解し、同一の人間が「複数の家族」に同時に帰属する事態も起こり得る。「結婚=生殖」が分離されるので、恐らく生物学的な「実親」と監護者たる「養親」との不一致も常態化するだろう。これらの現象を要約すれば、特定の相手との「持続的共生」が困難になるということである。言い換えれば「恋愛=結婚=生殖」の三位一体的信仰の廃絶は、その極端な尖鋭化と同一の帰結に到達するということである。

 「恋愛=結婚」の同一視を極限まで推し進めたとき、我々は「感情の変化」という不可避的な理由に基づいて、共生的関係の短命化を強いられる。他方、仮に「恋愛=結婚」の同一視を完全に撤廃したとしても、我々は特定の相手との共生的関係を維持することに困難を覚える。前者は「共生的関係」の「時間的複数化」として、後者は「共生的関係」の「空間的複数化」として要約し得る。「時間的複数化」においては、人は共生すべき「唯一の伴侶」を次々と取り換える。「空間的複数化」においては、人は共生すべき「複数の伴侶」を同時に保有する。つまり、何れの場合にも人は「絶対的伴侶」という崇高な理念を喪失する羽目に陥るのである。

 無論「絶対的伴侶の実在など、信じるに値しない妄想である」とニヒリスティックに言い放つことは容易である。「運命の人」という古典的なロマンティシズムを廃棄するのは、合理的な措置であると言い得る。事実、我々は夥しい偶然に導かれて、結果的に「伴侶」と邂逅し、関係を結んでいるに過ぎない。相対主義的な偶然性を否認することは、無益な抵抗に他ならないのだ。こうした賢明な諦念が「伴侶を任意に選択する」という自由主義的な発想を涵養する。けれども本来「共生」とは「偶然知り合った他者と紐帯を締結し、信頼関係を構築する営為」ではないだろうか。極端な言い方をするならば「共生=結婚」は、誰を相手に選ぼうと同じことである。「腹に入れば皆同じ」という慣用句に倣って「結婚してしまえば皆同じ」と言ってしまって差し支えない。問われるべきは「如何にして共生を実現するか」であって「どんな相手が自分に相応しいか」ではない。誰を伴侶に選ぼうとも、当人が相互に「共生」へ向けた創意工夫を持続しなければ、破局は避け難い。その意味では「恋心」と「結婚」は確かに無関係であり、所謂「恋愛結婚」の神威は虚しい幻影に過ぎない。「伴侶を選択する」という水平的な課題と「伴侶と共生する」という垂直的な課題は切り分けて論じられるべきなのだ。人が人を「選ぶこと」など出来ない。ただ「共に生きる」という唯一の途が残されているだけなのである。