サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「夜行列車」 2

 一夜の仮寓までの道筋を、謙輔の手足は明晰に覚えていたから、曖昧に揺れ動く会話に気を取られながらも、眼差しは常に細かく動いて、華やかな夜の光に包まれる数多の人影を絶えず確かめていた。この厖大で尽きることを知らない殷賑の渦中で、注意深く気を張ってみたところで、知り合いの接近を悉く見分けられる保証は何処にもなかったが、それでも追われる草食動物の警戒心を自堕落に投げ捨てる訳にはいかない。無論、本気で心配しているのならば、もっと遠く離れた、誰も知らない街で逢引きすべきなのかも知れない。だが、秘められた関係に時間と場所を選択する余裕や権利などない。事物の隙間に、まるで寝静まった深更の、厨房の壁の割れ目に忍び入る惨めな鼠のように、彼らは息を潜めて束の間の安息を必死に貪ろうとしているのだ。
 その卑しさに、謙輔も陽子も、如何なる恥じらいも覚えない訳ではなかった。嫌気が差さない筈もない。秘密裡に営まれる不埒な情事の禁じられた歓びに、総身を粟立たせる段階はとうに過ぎていた。惨めな立場であり、後ろ暗い関係であることは、少なくとも理屈の上では幾度も辿り直して知悉している。けれども、その頼りない反省が、堅固な決意として結実することはなかった。一時、実を結ぶことはあっても、その頽落は常に情け無いほど早かった。
 市街地の光の中を足早に抜けて、居酒屋の客引きたちの熱心な誘惑、恫喝を含んだ媚態の攻勢を無愛想に躱しながら、二人は夜の暗がりを目指して一心に歩き続けた。途中で立ち寄ったコンビニで、麻酔の切れた外科の患者のように、酩酊を欲して酒を買う。量は控えめだ。何れにせよ、二人に許された時間は著しく限られている。余り深酒が過ぎては、貴重な密会の時間を無駄に食い潰す結果に終わりかねない。常に彼らは時間に追われ、その有限性を鋭く意識せねばならない立場に置かれていた。普通の人々ならば、或いは世間一般の道徳的な間柄ならば、安易に使いたがるだろう「永遠」という言葉が、彼らの間では不可能な禁忌として明瞭に意識されていた。「永遠」? こんな馬鹿げた、胡散臭い、憐れで臆病な観念が他に存在するだろうか? 謙輔は虚しくなるだけで何の恵みも恩寵も齎さない「永遠」に食傷していた。その点に就いては、陽子の方はもっと冷静で、覚悟が据わっていた。
 彼女は今まで一度も、明確な表現を用いて「結婚」という「永遠」の類義語を、謙輔の面前で持ち出したことがなかった。それが直ちに、彼女の大人びた節制を傍証するものだと決め付けるのは早計である。彼女の胸の最も奥まった領域に生起する剣呑な本音を、総て白日の下に曝す術を、謙輔は持ち合わせていなかった。レントゲンのように総てを透かし見ることは不可能だ。言葉の端々に、それを探ってみることは出来る。だが、彼女は尻尾を掴ませなかった。二人の未来を戯言のように妄想してみせることはあっても、それを具体的な工程表の裡に落とし込む素振りは決して見せなかった。彼女の耳朶に揺れる金色のリングが、行き過ぎるタクシーの挑戦的な光線を浴びて、闇の中で鈍く閃いた。謙輔は彼女の汗ばんだ掌と華奢な指先に神経の尖端を集中した。その痩せた体躯を眼裏に想像した。この渇きは、単なる性欲とは異質な情熱であるように、彼は日頃から感じていた。白い稜線、複雑に入り組んだ肉体の無数の曲線、顫えるように薄明の中へ浮かび上がる柔らかい輪郭、その全身に纏われた生命の息吹のような温もり、落ち着いた鼓動、それらへの危険な執着が単なる生理的な現象に過ぎないと信じることは、謙輔にとっては不可能な選択肢だった。若しも性欲に過ぎないのならば、こんなに執着する必要があるだろうか。彼女は特別な肉体の持ち主という訳ではなかった。特別な美貌に恵まれている訳でもなかった。一般論として、陽子は平凡な女性であり、その思考や感性に圧倒的な独創性が備わっている訳でもない。謙輔の官能的な欲望が、陽子の肉体的な要素によって殊更に触発されていると考えることは難しかった。だが、それならば何故、こんなにも惹かれるのか、そもそも何に向かって惹き寄せられているのか、深く考え始めれば却って迷妄の裡に惑溺してしまうような有様だった。
 通りかかった古臭い中華料理屋の暖簾が明るんでいて、そこから騒がしい酔客の甲高い笑い声が鼓膜を劈くように響いた。陽子は僅かに鼻の頭に皺を刻んで、けれども中華料理屋の方には視線を転じずに通り過ぎた。夏の夜空は漆黒に沈むことを拒むように、仄かな群青の光を茫洋と宿して見えた。交差点の暗がりに紛れて、薄着の女が点々と葦のように立っていた。女連れの謙輔には一瞥さえ呉れようとせずに、薄着の女は明るい茶髪を街燈の撒き散らす光に染めたまま、黙って手許の携帯の画面を見凝めていた。交差点の名前を告げる青地の標識に大きな羽虫が荒々しく突進して耳障りな音を立てた。謙輔は無言で眼を凝らしたが、薄闇の中では標識の文字を読むことさえ覚束なかった。