サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「夜行列車」 8

 もう取り返しのつかない致命的な傷痍が、二人の絆の上に墜落したと謙輔は思った。それは今までの関係の裡に予め植え付けられた夥しい伏線の結実した姿だった。そうだ、最初の瞬間から何もかも分かり切っていたことじゃないか。謙輔は己の愚かさが齎す心理的な衝撃を少しでも和らげようと自分自身に向かって懸命に言い聞かせた。
 陽子はベッドの上に露わな肉体を横たえたまま、暫くの間黙り込んで身動ぎ一つ示さなかった。その表情には、先刻までの依存的な甘さが欠けていて、その代わりに難解な問題を解くことに熱中しながら疲れ始めた勤勉な少女の陰翳が落ちていた。難解な問題の前で途方に暮れながら、鉛筆を無闇に指先で転がして曖昧な時間を稼ぎ出し、脇道に逸れて、結局は夜の深みで束の間、戯れて過ごす。そんな夜を幾度も繰り返してきた。その夜が偽物であり長続きする見込みのない幻影のサーカスであることは、本当は分かっていたのだ。けれども、真実が分かるということは、必ずしも夢を見ないということに直結しない。そもそも、真実に何ほどの価値があるというのか。謙輔は悶えるような羞恥と慚愧に身を咬まれながら、叫び出したくなる衝動と夢中で戦った。真実は常に退屈で、生きる為の希望も絶望も生み出しはしない。白骨死体が人間の剥き出しの本性だと言われて、どんな美人も死んで皮を剥げば無機質な髑髏に過ぎないと嬉しそうに告げられて、それで一体この世界の何が変革されるだろう。不倫が夢ならば、結婚も夢だ。煎じ詰めれば同じことではないか。それなのに、何も力み返って、秘められた真実を告白するような積りで、俺は何か重大な結論を口に出そうとしているのだろうか、と謙輔は自分自身に当惑しながら考え込んだ。
「終わりにしたいの?」
 蛇口の滴りが洗面器の水盤を揺らして波紋を描くように、陽子の言葉が夜の闇の奥底に張られた沈黙の表面へ微かな震動を広げた。絶えず意識の片隅に蟠っている惨めな小動物のように、その言葉は常に二人の関係の網目に織り込まれていた。謙輔は咄嗟に答えられなかった。俺はもう終わりにしたいのだろうか? この夜の閉塞、社会の公道から隔てられ排斥された孤独な蜜月の、出口の見えない閉塞。そこから逃れたいのだろうか。罪悪感や疚しさや後ろ暗さ、抱え込んだ秘密の重量にもう、この腕は堪えられなくなりつつあるのだろうか?
「終わらせるべきじゃないかと思う」
 答えてから、謙輔は自分が世界で一番最低な男であるように感じた。そもそも誰にも認められる筈のない関係で、結ばれるべきではない関係であることは最初から明白だったのだ。それを分かっていながら、抑えられない感情に強いられて、禁じられた不当な感情に忠実であることを選んで、幾度も生温かい夜の暗がりを渡って来たのではなかったか。それなのに今、自分は、一般的な正しさを持ち出して、この軋轢を片付けようと試みている。それは不倫よりも悪質な裏切りではないだろうか。綺麗事に堪えられなくて、この夜の情事に飛び込んだくせに、今更足を洗おうとして綺麗事に頼るのは矛盾ではないのか。そして逆らい難い正義の言葉で、陽子の反駁を食い止め、彼女の存在さえも丸ごと強制的に綺麗事の内側へ幽閉しようと、邪悪な策略を弄しているのではないか。
「何でそう思うの。何かきっかけがあるの」
「きっかけは明確にはないけどね。時々辛くなるんだ」
「辛くなるの。何に対して」
「家族に対しても、陽子に対しても、俺は中途半端な存在というか、立場だからさ」
「そう。私も辛くなるよ。だって貴方には家族がいるじゃない」
「うん」
「私の方がきっとよっぽど辛いよ」
「比べても仕方ないだろう」
「そうだね。比べても仕方ないけどね」
「家族がいれば幸せとは限らないよ」
「そうでしょうね。でも、いないよりは幸せよ。喧嘩したって、喧嘩する相手すらいないよりはきっと幸せだわ」
 空調の低い唸り声、閉て切られた厚手の灰色のカーテン、刻まれていく時間、終電車の時刻表。謙輔はどんな言葉も地球の表面を撫でるように吹き抜ける虚しい疾風のようだと思った。夜の闇に潜む、禁じられた一つの咬み合わない関係、それならば、咬み合わない関係に疲れて家路を辿らない今夜の自分の選択は、何の意味があるのだろう。
「俺と喧嘩したらいいじゃないか」
「貴方と喧嘩したって無駄じゃない。貴方には家族の幸福という必殺の切り札があるわ」
「必殺だったら、ここにこうして来ていないじゃないか」
「だから卑怯なのよ。家族の幸福、子供の幸福、そういう切り札を出されたら、まともな人間だったら何も言えなくなるに決まってるわ。貴方の優位は、色んな意味で揺るがないのよ」
 これはカードゲームじゃない、と言い返そうとして、謙輔は辛うじて踏み止まった。これは本当にカードゲームじゃないのかと自問したら、綺麗に反駁出来る気がしなかったからだ。彼は陽子の髪を撫でようとして、手厳しく弾かれることが怖ろしくて指を伸ばせずに膠着した。自分に有利なゲームに興じながら、それを抑えられない深い愛という美辞麗句で装飾する男。その最低な肖像画が、俺の自画像なのかと彼は考えて途方に暮れた。