サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「月影」 5

 幼い頃に買い与えた立派な造本の図鑑たちの教育的効果は、小学校の高学年に差し掛かっても猶、明確な影響を燈里に及ぼし続けていた。絶対に手の届かない蒼穹の高み、そこに夜の漆黒の塗料が撒かれると、俄かに輝き出す星々の隠微な姿態を、その壮麗な秩序を、燈里は幾つになっても愛し続けた。彼女の幸福は、地上の世俗的な営みよりも、水晶のように冷たい無言の鎮座の裡に根差しているのかも知れなかった。
 彼女が殊更に狷介な少女であったとは思わない。病弱な幼年期を脱して、活発に大地を駆け回る健康な体躯を手に入れてからは、かつての繊弱な感受性は影を潜め、大胆で饒舌な少女の絵姿が前面に顕れるようになった。数多の友人を作り、賑やかな親愛の環に囲まれて、嬉しそうに燥ぎ立てる彼女の笑顔から、かつての病弱な日々を想起することは寧ろ困難であった。しかし、総てが根底から様変わりしたと考えるのは早合点というべきだろう。嬰児の頃に培われた特殊な感情の水脈が、年月の経過によって完全に涸渇したと看做すのは適切ではない。子供部屋の寝台や居間のソファで、鮮やかに彩色された惑星の画像に見蕩れているときの燈里の横顔には、過去の残照が明らかに滲んでいた。彼女は脆弱な幼年期を完全に克服した訳ではなかった。時間の堆積と共に養われた体力が、彼女の繊巧な魂を保護する柔軟な鎧として働くようになったというだけの話だった。
 小学校高学年の季節を迎えた燈里の為に宛がわれた子供部屋は、二階の南向きの一室であった。ベランダに接する掃き出しの硝子戸は夫婦の寝室にあり、彼女の部屋には幅広の矩形の窓が三つ、白壁に切られていた。その部屋割りは、娘の明朗な変貌に安堵していた妻が、それでも過ぎ去った不穏な感情の名残を洗い流せず、ベランダに接する個室を燈里に宛がうことに反対した結果であった。その不安は妻のみならず、私の胸底にも変わらずに宿り続けていた。寧ろ私の方が妻よりも、燈里の面影に繊弱な幼年期の陰翳を発見する歩哨の役目に忠実であったから、二間続きの過分な居室を娘に譲渡し、狭苦しい六畳間を主寝室に充てる不自然な部屋割りも、速やかに円満な合意へ達することとなった。
 広大な部屋へ射し込む豊饒な月明りは、燈里の寝台を夜毎に白々と濡らした。総てが寝静まった夜更け、妻の寝息を掻き乱さぬように注意を払いながら、私は時折、蒲団を抜け出して娘の居室を覗き込んだ。ぱったりと途絶えた夢遊病の禍いが、俄かに復活を遂げないか、心配していたのだ。燈里は分厚い遮光のカーテンを閉めて眠ることを好まなかった。光が入らないのは怖いのだと訴える彼女の幼稚な性向を、私たち夫婦は、強硬に禁圧する理由を持たなかった。けれども、月明りを浴びて眠る彼女の静謐な躰に、私は不安を隠せなかった。間歇泉のように、時々不意に強く噴き上げる胸騒ぎに揺り起こされると、私は燈里がちゃんと寝台に横たわっているか、この眼で実際に確かめずにはいられなくなった。ベランダの硝子戸に縋って、懶い不明瞭な声音を低く呟きながら、天頂に輝く月影へ祈りを捧げるように跪いていた幼年期の姿が、どうしても網膜から拭い去れないのだ。
 月光であろうと懐中電燈の光だろうと、それが光であることに変わりはない。しかし、得体の知れぬ不安が、そんな自明の理窟を私に嚥下させなかった。余りに夥しい月光が燈里の総身を包んで、その浸透が或る不可視の閾値を超えたら、再び夢遊病が始まるのではないか。若しも今度、あの病が再燃したら、それっきりあの娘は、元には戻れなくなるのではないか。そういう思念に苛まれるとき、私は私自身の病を疑った。自分の理性が、正常な機能を営めなくなっているのではないかという恐懼が、胸底を不穏な夜風のように撫でた。竹林が饒舌に擦れ合うように、幾多の感情と理窟が互いに触れ合って息苦しい胸騒ぎを起こすのだ。再び夢遊病者と化した燈里は、あの頃の繊弱な彼女ではない。小学生らしく、順調に発育した敏捷な肉体が、かつては可能であった両親の制止を、強硬に振り切って逃れてしまうかも知れない。ベランダの彼方へ、ベランダが最後の境界線となって防いでいる彼岸の世界へ、彼女が孤りで駆けこんでしまったら、私はきちんと狩人のように追い縋れるだろうか。敏腕の夜警の如く、彼女の暴走を阻めるだろうか。連れ戻せるだろうか、と私は静かに呟いた。口に出してみると、如何にも滑稽な妄想に聞こえた。一体、私は何に怯えているのだろうか。新生児の娘の寝姿を眺めながら、将来の結婚式の日を想って気忙しく涙ぐむ頼りなく若い父親のように、私は深刻な杞憂の虜となっていた。私の魂は不可解な妄想に縛られて、自由に呼吸することさえ妨げられていた。眠る燈里の頬に優しく触れると、彼女は眩しそうに眉間に皺を寄せた。この平穏な静寂が、そのときの私には、何かの手違いで転がり込んだ束の間の奇蹟のように切なく感じられた。