サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「月影」 6

 中学校に上がると、燈里は二つの新たな趣味に熱中し始めた。一つは弓道で、もう一つは天文学部の活動だった。どちらも学校の部活動で、彼女は文武両道の鑑になろうと志しているかのように精力的だった。弓道に関心を覚えた直接の理由は、母親の影響だった。私の妻は小学校の頃から、父親の影響で弓道を始め、大学生の頃まで飽くなき鍛錬の険しい道程を歩み続けた粘り強い女性だった。彼女の父親は弓道の選手で、その学生時代は輝かしい栄光に彩られていた。つまり、燈里の弓道に対する関心は、母方の血統によって養われた累代の本能のようなものだった。
 中学校二年生の夏に行われた県大会に、燈里は学校の代表の一人として出場した。私は県営のスポーツセンターまで、妻と連れ立って娘の勇姿を見物しに行った。母方の祖父から受け継いだ隔世の遺伝子が持ち前の才能を発揮しているのか、燈里の技倆は既に同級生たちの平均を優に超えていた。野良犬のように戸外を駆け回って、男児に入り混じりながら活発な日々を過ごしていた小学校時代とは異なり、弓道部員としての燈里は、色白の肌と艶やかな黒髪を備えた凛冽たる少女であった。日頃の練習に用いる浅葱色ではなく、県大会に向けて新調した純白の筒袖を纏って、鹿革の三ツ弽みつがけした彼女の真剣な眼差しは、近寄り難い神威を帯びて見えた。病弱な幼年期の蛹を脱ぎ捨て、小麦色に日焼けした活発な少女に育った燈里が、再び透明な殻を破って、別人に生まれ変わったかのようだ。あらゆる色彩を排除したような白い肌には、病弱な少女の残響が窺われるようにも思えたが、その内側から発する強烈な情熱、張り詰めた弦のように抑制された威力を蓄えた立ち姿は、彼女が自己の脆弱な部分を悉く鍛え直したことを暗示していた。
 もう一つの天文学部は、彼女の通う公立中学校に古くから存在する零細だが息の長い部活動で、老いた男性の理科教師がずっと顧問を務めていた。矢作という名の教師は鰥で、三十代の頃に妻を交通事故で亡くしていた。彼の運転する自家用車が踏切に突っ込み、左から走ってきた京成電車と衝突して、助手席に座っていた妻と、その腹の中に宿っていた六箇月の嬰児が死んだのだ。爾来、彼は独身を貫いているという話であった。温厚だが酷く寡黙で、その授業は校内随一の退屈さと、千篇一律の保守性で知られていた。学習指導要領が改められても、彼の授業の中身が改められることはないというのが、職員室や保護者会の集まりで囁かれる定番の無害な揶揄であった。
 弓道の練習だけでも夥しい時間と体力を消費するというのに、敢えて脚光を浴びることのない地味な課外活動にも熱心に明け暮れる娘の逞しく精力的な日々を、私たち夫婦は密かに讃嘆していた。彼女の生活は絶えざる課題と責務にびっしりと覆われ、自堕落な休息とは無縁であった。まるで何かに追い立てられるように、限られた生命の儚さを魂の奥底で痛感しているかのように、彼女は定められた学業にも手を抜かず、余った時間は総て、三寸詰めの和弓を引くことと、年季の入った天体望遠鏡のレンズを覗くことに充てられた。二つの部活動を掛け持ちして、何れも熱心に通うものだから、彼女の人脈は自ずと幅広かった。透き通るような純白の肌、蜂蜜を塗ったように艶やかな漆黒の長髪、満月のように円らな双眸も、燈里に対する周囲の好意や憧憬を高めることに大いに役立っていたらしい。
 中学三年の夏を迎える頃、燈里には恋人が出来た。その話を、私が彼女から直接聞いた訳ではない。思春期の少女の一般的な慣例に漏れず、燈里もまた、多くの個人的な秘密を、親しい同性の友人と、自分の母親だけに分け与えた。どんなに娘のことを愛していたとしても、父子の関係は幼年期の渾沌とした癒合から何れ切り離されねばならない。母子の長期的な癒着、そもそも同じ一つの肉体を共有していたという原理的な事実が、両者の関係に授ける永遠の刻印、そんな貴重な紐帯は、父子の間柄では決して望み得ないのだ。世間並みの親と同じく、一抹の孤独と寂寥を覚えながらも、私はそうした現実に過大な不満を懐こうとは考えなかった。病弱な幼女が、黒檀の肌を備えた快活な少女にかつて脱皮したように、燈里が様々な経験を転機として変貌していく姿を一定の距離から見守ることは、肉親に許された貴重な愉楽であった。その秘められた権利の行使だけに満足することで、私は父親としての職分を果たし、適切な立場の裡に逼塞した。今も二階の子供部屋には、彼女の愛した道具が保管されている。鹿革の三ツ弽も、浅葱色の弓道衣も、三脚を備えた白い天体望遠鏡も、歳月を閲する裡に古びて角の擦り切れた分厚い図鑑も、不在の主人の唐突な帰還に備えるように、無人の部屋で長い眠りを貪っている。死者ならば、もう戻らないだろうと断念することは出来る。良くも悪くも、確定した現実に向かって切ない祈りを捧げることが出来る。しかし、私たち夫婦の抱え込んだ感情は常に宙吊りの現実と結び付いていた。結論のある人生は恵まれている。結論の出ない人生には、希望に焦がれる権利も、絶望に屈服する権利も、共に認められていないのである。