サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「月影」 15

 九月の下旬まで続く厖大な夏休みの間、私たちは疎遠だった時期の物哀しい欠乏の記憶を埋め合わせるように、まるで夏の間だけ姦しく騒ぎ立てる油蝉のように、頻繁に二人きりの時間を重ねました。夏の選抜大会を終えて躰の空いた岩崎さんは、私を色々な場所に連れ出してくれました。彼のお父さんの車を借りて、箱根で一泊したこともあります。岩崎さんの御両親は、俄かに色気づいて忙しそうに日々を過ごす息子のことを軽快な冗談で如何にも愉しそうに揶揄するらしく、その度に彼は不機嫌な表情で私に向かって愚痴を零しましたが、間接的に話を聞いている限り、要するに御両親は自分たちの息子が行き過ぎた堅物ではないことを知って安心し、私たちの関係を密かに祝福してくれている様子でした。そのことは、私にとっても喜ばしい事実でした。何れ紹介するけれど、今は未だ恥ずかしくて気持ちの準備が整わないと、少し子供っぽい口調で嘯く岩崎さんの横顔にも、仄かに誇らしげな輝きが滲んでいて、私はしみじみ、この絆の再生を諦めずに待っていてくれた彼の心意気に感謝しました。
 それでも相変わらず、耳鳴りの症状は続いていて、しかも満月の夜の病状は一際、堪え難いほどに劇しく昂るようになっていました。そんなときは、岩崎さんの温厚な声を電話越しに聞き取ることさえ出来ません。サウンドジェネレータの治療音を幾ら大きく調節しても、焼け石に水です。孤りきりで灯りを消した部屋の枕に顔を埋め、二つの耳を掌で荒々しく抑え込んでも、頭蓋骨の内側に反響する数珠を繰るような響きは一向に和らぎません。そういうときは何も考えられず、日頃の生活から切り離されて、誰もいない水甕の奥底に閉じ込められたような暗澹たる気分に陥ることしか出来ませんでした。
 九月の朔日、症状の和らいだ私は、岩崎さんの車で犬吠埼へ出掛けました。早朝に出発し、果てしなく続く国道を東に向かって直走り、犬吠埼燈台から夕焼けの太平洋を眺める計画です。八月の満月の耳鳴りが殊の外酷く、私が随分苦しんでいたことを知った岩崎さんが、少しでも気晴しになるようにと考えて、私が以前から一度行ってみたいと話していた犬吠埼までの遠出を発案してくれたのでした。燈里と燈台って、何だか神秘的な因縁がありそうじゃないかと、岩崎さんは優しい口調で言いました。漢字が被ってるだけでしょと素気なく反論すると、燈台が船の道標なら、燈里は俺の人生の道標だと、彼は真顔で口にしました。余りに「くさい」科白だったので、却って私の方が恥ずかしくなりました。でも、そんな風に言われて、馬鹿な男だと思いながらも、決して悪い気はしません。
 岩崎さんは、犬吠埼に程近い場所にある小綺麗な旅館の一室を予約してくれていました。車と荷物を宿に預けて、強い潮風に吹かれながら、私たちは日没の迫る高台への道を並んで歩きました。駐在所の前を通り、高浜虚子の句碑が佇む緩やかな坂道を登って、私たちは素朴な外観の白い燈台を行く手に仰ぎました。
 第一等フレネルレンズを用いた骨董品の投光器を見物して嘆声を上げてから、私たちは肩を寄せ合って肌寒い展望台へ登りました。五時半の残照が、荒々しい波頭を一面に粒立たせて、宝石を撒いたように優美な景色を形作っています。円形の手摺に凭れて、人影の絶えた海辺を眺めている間、私は何故か郷愁のような感情に心の奥底を締め付けられていました。美しいけれど荒涼とした海景に、突き出した岩根にぶつかって砕ける波濤の無機質な律動に、得体の知れない不安を掻き立てられたのかも知れません。岩崎さんと会話することも忘れて、私は眼前に広がる日没の光景に魂を吸い込まれていました。夕闇は刻々と深まり、六時を過ぎると辺りは夜の帷に覆われて、海とは反対の方角に僅かな紫色の影が、日の名残りとして蟠っているだけの状態に移り変わりました。
 肩を叩かれて、私たちは潮風に悴んだ指先を結び合わせて階段を降りようとしました。そのとき、岩崎さんが不意に、静かな口調で言いました。
「今度、俺の親に会ってくれないか」
 突然のことで、私は岩崎さんの真意を一瞬、不器用にも掴み損ねました。
「いいけど、どうして急に?」
「馬鹿なことを言うなよ」
 昔、弓道場でバスに乗り遅れた間抜けな私に向かって見せた呆れ顔が、そのときの岩崎さんの表情と重なりました。
「決まってるじゃないか。君と結婚したいんだ」
 思わず立ち止まって、私は言葉を失いました。吹き荒ぶ冷たい潮風だけが、顫える躰の理由ではありませんでした。驚きと当惑と歓びが、複雑な組成を描いて、私の体内を迅速に駆け巡りました。
「直ぐに答えてくれなくてもいい」
 絶句する私の沈黙に堪えかねたように、岩崎さんは顔を背けて、螺旋階段に靴の尖端を向けました。その背中に慌てて縋り、私は息を呑みました。
「御願いします。私の両親に、会って下さい」
 そのとき振り向いて此方を見凝めた岩崎さんの榛色の瞳を、私は最後まで忘れることが出来ませんでした。