サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「昊の棺」 7

 夏月は離婚すると言った。浮気相手の商品企画部の係長は過去に妻と死別していて、小さな男の子を抱えていた。とても優しくて寛容な人なのと彼女は落ち着いた口調で説明した。言外に含まれた、硬い棘。貴方とは違う人なの。何が違うのか、そんなことは、重要じゃない。違うということ、同じではないということ、それ自体に価値があるのだ。残念だけど、もう続けられないわ。互いの為にもならないし。善意に似せた、使い勝手の良い言葉。交渉の為に洗練された巧妙な科白。
 私は懇請の言葉を嗚咽のように吐いた。改めるべきは必ず改める。私の誓約は、夏月の冷笑を浴びた。ごめんなさい、その言葉を信じるには、時間が経ち過ぎてしまったんじゃないかしら。時計の針は戻せないでしょう。戻せたとしても、それは単に時計が狂っているだけの話じゃないかしら。狂った時計に用事はないわ。生きることに遅刻してしまうかもしれないもの。
 狂った時計に用事があるのは、古びた遺物に埋もれて暮らす、優雅なアンティークの蒐集家だけで、目の前の激流を、息を切らして泳がねばならない凡夫には、無用の長物だ。熱帯魚のように、いつまでも水槽の中で、電球を太陽と取り違えている訳にいかない。
 彼女の浮気を私は劇しい言葉で詰った、自分の罪を見えない棚の奥に片付けて何食わぬ顔で、彼女の「不実」を誹謗した。それは誠実な愛情の所産ではない。若しも私が額面通りに彼女のことを心から大切に想っているのなら、相手の過ちを刃物のような単語と手錠のような文法で責めたりしない。貞操義務違反という血の通わぬ掟を持ち出して、相手を罪の鋳型に押し込めたりしない。破獄しようとする彼女の後ろ髪を乱暴に掴む、身勝手な看守の指先は、警棒のように冷えていた。ねえ、あたしのことがそんなに嫌いなら、さっさと離婚届に署名してくれればいいじゃない。泣きじゃくった揚句に投げ付けられる彼女の科白は、私の怒りに油を注いだ。お前は何も分かっていない。お前は昔からそうだ、他人の理窟に耳を傾けようとしない。瞋恚が、彼女の瞳を薔薇のように花開かせる。
 不実を責めても夏月が一向に弱らないので、そのうち私は彼女が義理の子供の母親になることに疑問を呈するという具合に角度を変えて、彼女の決心を突き崩そうとした。五歳の男の子の継母という重要な役柄が、君に担えるとは思えない。不妊の件で揉めた私たち夫婦の間で、そのような視点を持ち出すことは自爆テロにも等しい。彼女は眼の色を変えて私を睨みつけ、リビングに飾ってあった花瓶を床に叩き付けた。
「そんなことは遣ってみないと分からないわ」
「君は不妊治療を拒んだじゃないか」
不妊治療を拒んだら、人の親にはなれない訳?」
「少なくとも君が道を閉ざしたんだ」
「そうやって何もかも他人に罪を被せるのね」
「君は自分の利益しか考えていない」
「そう思うならそれで結構。じゃあ、貴方の利益なんかに配慮しない」
 総ては後戻りするタイミングを見失った。復路のない箱根駅伝のように、目印を置き忘れたヘンゼルとグレーテルのように、私たちは孤立した闇の中に蛍火となって舞った。ねえ、どうしてこうなったのかしら。曲がりなりにも、結婚を誓い合い、添い遂げることを約束した二人だったのに。
 私が離婚届の提出に合意しないので、彼女は痺れを切らして西船橋の家を飛び出した。仕事を終えて帰ってきたら、彼女の荷物は、ダーツで撃ち貫かれたように消えていた。私は冷蔵庫からハイボールを取り出して、胃に流し込んだ。腹は空いていたが、立ち上がって何かを作ろうという気にはなれなかった。椅子に腰掛けたまま、莨を吸って、台所の縦長の窓から紅い三日月を眺めた。
 寝る前に彼女の携帯に着信を入れようとしたが、聞こえるのは接続不能を告げるオペレーターの録音された声だけであった。開かない扉を虚しく叩き続ける囚人のように爪を立てて、私は何度も彼女の番号へ発信した。諦めて寝入る頃には、東の空が白んでいた。そして退屈な朝が訪れる。彼女のいない家にも、彼女の不在そのものにも、曙光は公平に射す。汗臭いワイシャツを洗濯機に抛って、淡い水色のシャツに着替えても、気持ちは切り替わらない。死別ならば、葬式を挙げられる。生別には、どんな儀式が相応しいんだ?
 二週間後に夏月から着信があった。離婚届に判を捺して郵送してくれ。駄目なら、裁判所に相談する。出口の見えない口論に時間を割くには、人生は朝露のように儚い。二週間の沈黙を守ったのは、私の精神が平衡を取り戻すのに、最低限必要な期間であると踏んだからだろう。疲れ果てた私の心に、彼女の最後通牒は死刑宣告として響いた。もう話し合っても折り合えないのか。私が尋ねると、電話口の向こうで小さな子供の笑い声が聞こえた。ええ、私には次の人生が待っているの。俺には待ってないよ。干物のような声で漏らすと、夏月は苦笑した。気付かないだけよ。目覚めれば何時だって日付は変わっている。私にとっても、貴方にとっても、カレンダーは平等に捲られるわ。誰かの手帳にだけ、日曜日が一週間に二回も割り振られたりはしない。
 一箇月悩んでから、私は記入した離婚届を彼女の指定した住所に郵送した。それは彼女の実家の住所で、新居の住所を私に告げる意思が毛頭無いことを示していた。後は彼女が粛々と手続きを進めるだろう。そして取り残された私の許には、船橋市役所から封書で無味乾燥な、所定の書式に過不足なく則した離婚届受理の通知が届くであろう。 

 その展望台から眺める夕暮れは、薄れていく記憶の彼方に破れた凧のように引っ掛かっていた。私たちは嘗て遠い海原へ視線を送り、沈んでいく夕陽を静かに見送った。葬送の音楽に粛然と耳を澄ませるように、私たちは手を繋いで一日の終わりを見守った。それからもう随分と長い時間が経ったが、眼に映る景色も、展望台の様子も、変わらぬままであった、まるで私だけが幾多の星霜を飛び越える箱舟に乗り組んでいたかのように。私は学生の頃と違って孤独な身の上であり、嘗て愛した女性は音信を絶って今では行方も分からない。懐かしい風景の中で、私だけが変わってしまった。空が紫色に染まり、燃える夕陽は海の向こうへ刻々と沈んでいき、やがて夜が始まろうとした。夏の短い夜の始まりだ。それを確かめてから、私は展望台を降りた。世界の終わりが、始まろうとしていた。

 夏月が家を出てから、一年が経った。私は、友人の紹介で知り合った女性と、何度か食事に出掛けた。都内のデパートの化粧品売場に勤めている女性で、名前は澤田紫さわだゆかりといった。咄嗟に白米に混ぜて食べる紫蘇を思い出したが、関係が壊れると困るので彼女の前で口走るのは控えた。彼女の眼は切れ長の一重で、穏やかなニュアンスを湛えていた。
 日本橋の地下にあるイタリアンレストランで食事をした帰りに、私たちはホテルで交わった。彼女は二十六歳で、自己主張の弱い、隷属的な性格であった。嫌がる素振りも見せないで彼女は勧められるままにシャワーを浴び、私に服を脱がされた。終わった後は、コーヒーを飲みながら四方山話に耽った。彼女は、セックスが余り好きではないと言った。痛いし、何だか動物的ではないですか。でも俺たち人間は皆、根っこは動物だよ。彼女は静かに笑った。人間は動物ではありません。畸形です。
「どういうこと?」
 私が訊ねると、彼女はコーヒーに角砂糖を足した。
「何ていうか、動物みたいに純粋じゃないでしょう?」
「純粋じゃない」
「動物は本能に忠実じゃないですか。でも人間は、忠実であることが出来ないですよね」
「セックスは本能に忠実な行為ってこと?」
「私は本能から自由でありたいと思って生きてるんです」
 だから私は化粧品を売ります、それは人間が人間であることの理由に貢献する商品だからです。奇妙な女だなと思いながらも、私は彼女の切れ長の眼と柔らかい躰が好きだった。
「化粧は本能を隠したり、コントロールしたりする為の作業なんです」
「素顔を隠すもんね」
「男の人って、本能が好きですよね」
「そうかな」
「そうですよ。男は皆、本能に忠実です。女は本能を客観的に眺めているんです」
 紫は優しかった。控えめで、我儘を嫌う、清楚な美しさの持ち主であった。彼女の笑顔は透き通って、自我の堅牢な手触りを欠いていた。それは何にでも当て嵌まる、汎用性の高い笑顔で、接客という職業を通じて磨き上げられたのか、生得の資質であるのか、判断はつかなかった。二十六歳になっても、親許を離れずに、川崎の実家から律儀に通勤の電車に揺られる日々を送っている彼女は、次第に私の孤独な栖に外泊するようになった。娘の行動を、鷹揚な両親は咎めようとせず、寧ろ彼女が人並みの恋愛に染まり始めたことを寿いでいるようであった。学生の頃から、専業主婦の母親に仕込まれているという炊事の腕前を、彼女は西船橋の寂れた台所で存分に発揮し、私の灰色の日常に彩りを添えた。彼女の作る和え物や煮物は、失われた夫婦生活の擬似的な再生であった。
 やがて、彼女が一緒に暮らしたいと言い出し、私は若干の躊躇いを覚えながらも断る理由が思い浮かばず、紫の提案を受け容れて、アパートの管理会社に契約内容変更の申請を行なった。同棲の開始に際して、私は川崎まで出向き、静かな和食のレストランで彼女の両親、三つ年下の弟と初めて顔を合わせ、和やかな歓談の時間を過ごした。
 私が離婚歴の持ち主であることに、彼女の両親は勿論、清々しい笑顔で報いてはくれなかった。だが、彼女の弟が妙に私の肩を持ってくれて、離婚なんて今どき珍しいことじゃない、それを人生の汚点と看做して蔑視するのは古い時代の偏見だと熱弁を揮い、銀行員の父親を黙り込ませた。私は紫に別れた妻の不倫の話はしたが、自分自身の不実に関しては盗人猛々しく口を拭っていたので、構図としては私の側は無罪であるという扱いで通っていた。寧ろ、誠実な愛情を裏切られた哀れで間抜けな男という有難い肖像画が、私の為に用意されており、その肖像画の写実性を、紫も彼の弟も素朴に信じ込んで疑わなかった。
 身内の熱心な説得が奏功して、私と紫との同棲生活は始まった。新しい家を借りて移り住んではどうかという提案が紫の両親から出されたが、当時、私の勤める会社では四月に春の人事異動の発令を控えており、遠方の事業所に配置転換される可能性もあり、当座は西船橋のアパートで暮らしたいと訴えた。前妻との記憶が残る場所に二人で暮らすのは不和の種になると、向こうの両親は釈然としない顔つきであったが、紫が過去は気にならないと断言したので、それ以上の攻勢は封じられた。
 その時点で私は、愚か者の履歴から脱け出せていなかった。過去は気にならないと断言した彼女の態度が、私への思い遣りであると同時に、不安に揺れそうになる自分自身への痛ましい説得であったことを、見抜いていなかった。