サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「古都」 1

 その日、午後から東京は酷い雨が降るという予報で、その分厚い雨雲と暴風の野蛮な交響曲に捕まる前に颯爽と出発したいというのが、そのときの私の希望の総てであった。駅舎の地下深くに押し込まれた、古代の墳墓のように寒々しい総武線快速のプラットフォームへ降り立ち、通りかかったキオスクで何気なく手に取った薄い新聞には、間近に迫った東京優駿の予想が記されていて、私が皐月賞で本命と当て込んだのに第四コーナーで骨折して殺処分となった馬のことが脳裡に忽然と甦った。期待していた馬に死なれた私が不幸なのか、それとも私に乏しい有り金を託されて死んだ馬の方が不幸なのか、定かではない。
 突然京都へ向かうことになったのは、親類の葬儀の為であった。母方の伯母の娘、つまり私にとっては従姉に当たる女性が、未だ三十路へ足を踏み入れたばかりの若さで、自ら首を括って果てたのだ。その報せを聞いて以来、私の母は暫く口も利けないほどの落ち込みようで、見兼ねた父から何処か食事にでも買い物にでも連れ出せと命じられたのだが、気の塞いだ母は息子の親切な誘いにも邪険な応対に終始して、珍しく奇蹟的に湧き上がった私の親孝行に対する殊勝な情熱を瞬く間に吹き消した。もう二度と何処にも連れ出してやらねえと憤慨して幼稚に息巻きながら、警察の検屍やら遺品の回収やらの煩雑な手続きが終わり、瞬く間に葬儀の仕度が整った。幸い、通夜は土曜日で、会社に忌引きを申請する必要もなく、私は黒のネクタイを締めて船橋の自宅を飛び出した。両親は昨夜から葬儀の手伝いをすると言って、先に京都の会館へ向かっていた。
 東京は朝の裡から既に暗鬱な曇り空で、気分の冴えない週末の始まりには相応しかった。クローゼットから引っ張り出した着慣れない黒い礼服に身を固めて、長大なエスカレーターを急ぎ足で登り、東海道新幹線の改札へ向かう途次、不意に自ら縊れて暗い室内に吊るされた従姉の遺骸を想像し、不吉な寒気に襲われた。何が彼女をそうさせたのか。急に慌てて考えてみたところで、普段は互いに疎遠な間柄で、彼女が過ごしていた日々の端々に差していたであろう陰翳の濃淡すら、私には何一つ分からないのだ。人が自ら死を選び取る追い詰められた感覚を、私は巧く実感として確かめる力を持たなかった。博多行の「のぞみ」が蒸し暑く騒がしい地上のプラットフォームへ滑り込んで来るまで、辛うじて曇天は持ち堪えていたが、品川を過ぎて直ぐに大きな雨粒が壜の底のように分厚い窓硝子を叩き始めた。屈折した懶惰な感情が、予定外の早起きを強いられた二つの瞼に、暑気で溶けかけたゴムのように貼り付いていた。新横浜を過ぎたら莨を吸いに立とうと心に決めて、東京駅のコンコースで値段もまともに確かめずに急き立てられるようにして購った高価な弁当の包装紙を丁寧に解いた。鯛めしに海老や帆立が居候して、イクラと錦糸玉子で鮮やかに彩られたその豪勢な見た目は、俄かに舞い込んだ仏事へ赴く為に黴の生えかかった礼服を慌てて着込んだ男の食事には余り相応しくなかった。
 実家からの電話を終え、突然の訃報を知らせると、妻は蒼褪めた顔色で暫く絶句していた。親類の自殺などという血腥い事件は、彼女の抱え込んだ辞書の中には一文字たりとも記されていなかったのだ。群馬の温泉地にある老舗の旅館の次女で、従業員からも客からも可愛がられて鳳蝶のように軽やかに育ち、恵まれた家産に支えられて優雅にピアノを弾いたり油彩画に凝ったりする少女時代を過ごした彼女の海図には、そんな陰惨な暗礁の存在を示す記号など何処にも載っていない。皐月賞の日、私の買った馬が第四コーナーで、大外の綺麗な芝生を狙って無理に追い出し、目障りなライバルを躱そうとして脚を折った瞬間、血統も距離の適性も勝率も知らず、ただ艶やかな黒鹿毛に覆われた屈強な馬体の精悍な躍動に関心を惹かれてテレビの画面に見入っていた妻は、大きな悲鳴を上げて洗い物をシンクの底で叩き割り、ソファに転がって怠惰に裂きイカを咀嚼していた私の重たい臀部を顫えさせた。ピンヒールで踏まれた蟇蛙みたいな声を出すなよと詰る私に向かって、蒼白の妻は手近なスキレットフェデラーのように握り締め、勇猛果敢な歩兵の眼差しを送り付けた。まさか貴方が買った所為で脚が折れたんじゃないの、可哀想に。憎たらしい女め、俺だって後味の悪い気分に苛まれながら、この温くなった一番搾りを呑んでいるんだ、根も葉もない言い掛かりは止してくれ。
 何があったのかしら。血の気の失せた唇を微かに痙攣させて、夥しい数の臆測を林立させようとする妻の動揺を、私は聊か疎ましく感じた。そんなことは誰にも分からないさ。あんまり考えても仕方ないよ。人の死んだ理由に他人が土足で立ち入るのは、単なる無礼を越えて、立派な冒瀆だ。二つ違いの秋南あきなの唐突な自裁、それは遠く稀薄な追憶の中の、転がる鈴のように軽やかで能天気な笑い声からは決して演繹することの出来ない、余りに突拍子もない霹靂の報せだった。それを手持ちの箪笥の抽斗へどうやって収めればいいのか、ガタガタと手間取る裡に蒸し暑い紺青の夜は昏々と更けていった。