サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「古都」 5

 新米ながら熱心に働いて、長時間労働も厭わず、それなりに容貌の見栄えがして明るく人懐っこい気質であれば、自然と男が出来るのも不思議ではない。化粧品売場を管理するマネージャーの一人と親しくなり、幾度か食事に誘われて、酒を酌み交わすうちに言い寄られ、特に断りもしなかったのだ。幸いにして相手の男は未婚の若者で、二人の交際を妨げる暗雲は、同僚たちの嫉視や冷笑以外には取り立てて存在しなかった。故郷を離れ、知り合いのいない異郷へ移り住み、日々それなりに緊張感を以て過ごしていれば、時には重たい甲冑を脱いで人肌に甘えたくなる夜もあるだろう。
 秋南自身、何時までも居候の身分で私の父母に迷惑を掛けるのは心苦しく感じていたのだろう。それに彼女の敵対する春枝伯母と私の母が血を分けた姉妹であることは不動の事実であり、庇ってくれているとはいえ、自分の新しい生活の動向が京都へ筒抜けになるのは不愉快だという想いもあったに違いない。男の熱心な勧誘も相俟って、関東へ移って三箇月ほどで、恋人と同棲する為に私の実家を辞去することを決めた。母は不安げな様子であったが、同時に重い肩の荷が降りたような心境で、若い悍馬の如き姪っ子の東京における監督者という報われない役目から解放されることを密かに歓んでいた。堅物の父は、真面目に働いている限りは大丈夫だろう、せいぜい男に溺れないことだ、と要らぬ嫌味な訓誡を垂れて、秋南のみならず、妻からも冷ややかな失笑を購っていた。
 秋南と恋人は、半蔵門線住吉駅の近くに質素なアパートを借りた。もう直ぐ三十歳の峠に差し掛かる恋人のマネージャーは、余り贅沢を好まない地味な人だと彼女は語った。明後日に引越しを控えた日曜日の夜、私は秋南を誘って船橋の小さな串焼きの店で酒を飲んだ。転居の餞に、壁掛けの時計を贈るという口実もあった。狭苦しいカウンターに並んで腰掛け、私たちは冬の終わりの、生温い夜風に叩かれる窓硝子の音を聞き、店主が網の上に並べた串刺しの肉の脂が爆ぜる小気味いい音に耳を澄ました。
「しかし、随分と気が早いもんだね」
 私はウイスキーの水割りを傾けながら、腫れぼったい瞼に酩酊の浸透を感じていた。理性の枠組みが酒精の魔力で徐々に辺縁から蝕まれていき、言葉は少しずつ濁って軽はずみな舞踏を演じ始めた。動もすると縺れそうになる私の危うい口調に伝染したのか、秋南の眦にも明らかな酔漢の紅潮が滲んで、その語気は普段よりも更に強かった。
「何よ。年寄り臭い説教は止してよね」
「故郷を離れて孤りで上京して、あっという間に男を見つけるなんて、淋しい女の典型じゃないか」
「淋しくて悪かったわね。あんただって、淋しいから同棲してるんでしょ。人肌が恋しくなるのは誰だっておんなじじゃない」
「そりゃあ正論だけどさ。露骨に縋りつくような恋愛ってのは良くないよ。主導権を相手に独占されかねないからね」
「あんたさあ、どっちが年上か、分かって言ってんの?」
 麻酔が効いたように甘ったるく縺れた秋南の声音と、持ち前の高飛車な物言いは矛盾していて、却ってそれが魅惑的に響いた。彼女の胸許には、マネージャーの男から貰ったという、白金の環で彼女の誕生石であるアクアマリンを囲った美しいネックレスが光っていた。随分、その男は秋南に御執心なんだなと思うと、ほんの僅か、眦から零れ落ちた一滴の眼薬のように、得体の知れない嫉妬が差した。
「別に縋りついてる積りなんかないわ。何かを失った以上は、何かを新しく手に入れる必要があるだけよ」
 吐き捨てるように動いた彼女の柔らかい唇に、思わず視線が吸い寄せられた。羅針盤の壊れた船が、慌てて手近な燈台の光を双眼鏡で探し求めるように、彼女は身近な現実の中に有効な手摺を発見しようと努力していた。手の届く範囲の裡に、生きることの充実を、その源泉を掘り当てようと懸命だった。それが悪いと言いたい訳じゃない。そもそも、母親と喧嘩して郷里から強引に出奔してきたこと自体が、批難しようと思えば幾らでも批難出来る軽率な行動なのだ。叩き始めれば、埃は無限に虚空へ舞い上がるだろう。ただ、実母と険悪な間柄のままで、総てを側溝へ押し流すように、さっさと人生の升目を次へ進もうとする性急な手つきが、妙に頼りなく儚げに見えた。その瞬間の秋南の横顔は、夏の陽射しを浴びて蝉のように日焼けした快活な少女の面差しとは全く繋がらなかった。最初は無難に麦酒を呷るだけだったのに、軈て卓上には芋焼酎の水割りが並んだ。割合に酒の強い体質でも、その晩の彼女は明らかに杯を重ね過ぎていた。渇いた馬が喉を潤すように、秋南は冷えた焼酎をぐいぐいと乾して、酒臭い吐息を恥じらいもしなかった。懶げに潤んだ瞳の中に、幸福の証左を見出すことは難しかった。晴れがましい同棲の門出に、彼女は洞窟へ逃げ込むように酒を浴びて現実の輪郭を不鮮明なものに変えようとしていた。
「そんなに呑んで大丈夫なのか?」
「大丈夫よ。明日から連休貰ってるんだから、一晩くらい酔い潰れたって、誰にも迷惑は掛からないわ」
「少なくとも、俺に迷惑が掛かるじゃないか」
「それくらい、我慢してくれたって良いじゃない。酔っ払った従姉を見捨てるなんて、そんな人情のない男じゃないでしょう?」
 カウンターに半分顔を埋めて、気の強い笑みを浮かべながら此方を見凝める秋南の瞳には、幼かった頃の夏の残光が俄かに、夕暮れの雷鳴のように閃いた。